第7話 お駄賃はホットケーキ
鈴音はマスターの三菱デリカを降りるとレーザー盗聴器の入った箱を抱えてゆっくりと歩道を歩いた。耳に嵌めたヘッドホンは、胸ポケットのスマホに繋いでいるが、音楽を聴いているわけではなく、通話中の音声が聞こえる状態だ。
「僕は何処かでUターンしてきて道路の鴨川沿いに車を止めます。天川さんは赤いモミの木の駐車場脇の街路樹の辺りで待機してください」
マスターの指示がヘッドホンから聞こえる、背後ではマスターのミニバンが走り去る気配がした。
鈴音は指示されたとおりに、街路樹の下に立ち、リボンの付いた箱を胸の辺りに持った。箱の外側の面には窓が開いており、反射したレーザー光を受けるようになっているらしい。
「天川さん今、赤いモミの木の前に戻ってきました。こちらを振り向かないでそのまま立っていてください」
ヘッドホンから声が響いた。意外と早くマスターが戻ってきたので鈴音はほっとした。
しかし、こんな所に立っていたら店内からは丸見えだ。
派手なリボンをかけるラッピングはあまり見かけないのですごく目立つ気がして、鈴音は気が気ではなかった。
それから相当長い時間、箱を抱えて立ち続けていた。そろそろ箱を抱える腕もしんどくなってきたと思い始めたころに、マスターが話しかけてきた。
「どうにか会話が拾えたと思います。そろそろ撤収しましょう」
「どうしたらいいですか」
胸ポケットのスマホが声を拾ってくれるか自信がなかったが鈴音は箱を抱えたまま訪ねた。
マスターは鈴音の質問が聞こえたらしく指示を返す。
「そのまま、四条通の方に歩いてください信号を渡ったら南座が見えると思うのでその前で待っていて下さい。僕は今から回り込んで拾いに行きます」
マスターは悪目立ちした鈴音と自分の車を店内から見ている人に関連付けさせたくないらしい。
鈴音はそんなことを考えながらゆっくりと歩いて四条通りの交差点を渡った。すぐそこに歌舞伎座「南座」が見えている。
南座の前の歩道を歩いていると、待つほどもなくマスターのミニバンが目の前に寄ってきた。川端通りを北方向に走り去ったのに、あっという間に回り込んで鈴音の回収に来たのだ。
鈴音が、自動スライドドアから二列目のシートに乗り込むと、マスターはデリカを発進させて素早く周辺の車の流れに乗った。
「今日はこれくらいにして引き上げましょう」
マスターの言葉が意外だったので、鈴音は聞いた。
「もう尾行はしないのですか」
「天川さんの指摘が気になったので、盗聴した音声を聞いてみたいのです」
マスターは生真面目に答える。
鈴音とマスターはデリカをマスターが借りている駐車場に置いてから、「スモーク」の店内に入った。
時刻はお昼に近くなっている。
マスターはカウンターの内側のオープンキッチンからスタッフスペースに入るとラップトップパソコンを持ち出した。
そして、店内に三つある4人掛けのテーブルにラップトップを置いて起動した。
そして、鈴音が抱えていた箱を開けて、中からSDカードを取り出すと、パソコンのスロットにセットする。
マスターはそのまま何気なく、メディアプレイヤーで音声を再生しようとしている。
「レーザー盗聴器ってそのまま音声で聞けるようなものなのですか」
鈴音は専用のソフトウエアを使って音声に変換するのだろうと思っていたので、そのまま音声ファイルとして再生できるのが意外だったのだ。
「さっき言った通り、ガラスで反射したレーザー光さえ拾えたら、音声としてピックアップするのは比較的簡単なのです。今日は天川さんの協力のおかげで初めて実戦投入することができました。うまくいっているかどうかはこれから聞いてみないとわかりません」
マスターはパソコンの音声出力のボリュームを上げながら言った。
「あの」
鈴音が声をかけたので、アスターは顔を上げた。
「何ですか」
「私のことを、鈴音と呼んでくれませんか」
鈴音は、天川さんと呼ばれると何となく他人行儀な感じがしていたのだ。
「いいですよ。実は今日、何回か「鈴音さん」と呼んでしまっていましたけどね」
「あれ、そうでしたか」
鈴音は気づいていなかったので少し気まずい感じがしたが、マスターは頓着しないでパソコンの操作を続けている。
しかし、ボリュームを上げたパソコンからは、何も聞こえてこなかった。
「おかしいな。うまく反射光が当たるように調整したつもりなのに」
マスターがつぶやいたとき、パソコンから音声が聞こえ始めた。
それははっきりした会話ではなく、ノイズのような感じだった。
食器のぶつかる音やざわめきのような声、それに自動車のエンジン音などが重なっている。
それらの音は、ときおりぷっつりと途絶えて無音になる時間もあった。
「通りの反対側からレーザー光を当てたので、バスやトラックが通過するときに、レーザー光が遮られたのですね」
「それじゃあ、ノイズみたいな音が出ているときは、うまくレーザーを拾えていたんですね」
「そのとおりです」
マスターは微笑んだ。鈴音は、マスターに微妙に笑窪ができることに気が付いた。
『吉良さんには、主人の行きつけの店を彼に気が付かれないように予約してホームパーティーができるように交渉するのを手伝ってほしいんです。それで・』
だしぬけに話声が聞こえたので鈴音は驚いた。思ったよりもクリアな音声だ。しかし、バスやトラックでレーザー光が遮られたり、鈴音が身動きして受信機が動いたとみられるときは会話が途切れている。
『・・そんな事せえへんでも、普通にお家でパーティしてあげたほうがええんちゃうの。まさと君は工務店してはるから、顧客と・・・・・確実に準備した場所に来られるとは限らなしいし。・・』
会話は、その後も途切れ途切れだが聞き取ることができた。二人とも自分の子供のことを共通の話題にしているようだ。そして数分でノイズ交じりの音声は途切れた。
「会話の内容から判断すると、広田さんの奥さんの尚子さんがお子さんが幼稚園に通っていた時のお友達のお父さんが吉良さんですね。吉良さんは奥さんがお勤めに出ているので、自営業の旦那が幼稚園の送り迎えに来ていたので尚子さんと知り合った。子供たちがこの春から小学校に入って、会う機会がなくなっていたので久しぶりに連絡を取って再会した。というところですね」
「今の会話でそんなにいろいろわかるんですか」
「半分は広田さんの旦那の方の真人さんから事前情報として聞いていたことですが、これで確認できました。」
「それでは、奥さんは浮気していたわけではないんですね」
「それはわかりません。明日からも尾行して、事実関係を確認できてから真人さんに報告です」
マスターはパソコンを片付け始めた。鈴音は浮気の有無はさておき昼間から出かけてお茶している尚子さんがなんだかうらやましくなって口に出した。
「専業主婦の人って時間を自由に使えていいですね」
「お勤めしていた人にはそう見えても、専業主婦や自営業の人にはそれなりの気苦労があるんですよ」
マスターはやんわり答えたが、鈴音は自説を否定されたので口をつぐんだ。
マスターはパソコンを片づけると鈴音に言った。
「お腹がすいてきたからお昼にしましょう。外から見ていたら赤いモミの木のホットケーキを食べたくなりました。今からさっきのお店に行きませんか」
鈴音も同じことを考えていたので何回もうなずいた。
「盗聴を手伝ってもらったから僕がおごります」
「本当ですか。わあい」
鈴音がマスターと一緒にお店を戸締りして階段を上ると、階段の上には、よく晴れた空が見えていた。
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