第8話 バースプーンの使い方

 マスターの探偵業を目の当たりにしてから二日後、鈴音は開店前の「スモーク」でバースプーンの使い方を練習していた。

 バースプーンはビルドスタイルのカクテルを作る際に、タンブラーに入れた材料を混ぜるためのスプーンだ。

 長い柄の片方が細いスプーンで反対側の端にはフォークが付いている。

 そして、回しやすくするためか、長い柄の部分はらせん状になっている。

 今のところ、鈴音がお客さんに出すカクテルを作る予定はないが、お運びさんと経理だけでは味気ないからカクテルの作り方を教えてくれと、マスターにおねだりしたのだ。

 その結果マスターから仰せつかったのが、氷と水が入ったグラスをバースプーンでかき混ぜる練習だった。

「マスター。カクテルってあのシャカシャカって振るやつで作るんじゃないんですか」

 鈴音がぎごちなく氷と水をかき混ぜながら聞くと、付き合いのいいマスターは鈴音の口調に合わせて答えた。

「シャカシャカするやつはシェイカーと呼びます。シェイカーを振るのは上級編に入ってからです。まずはバースプーンで上手にステアできるようになってください。上手になってきたら、ロングカクテルを作るのを手伝ってもらうかもしれません」

「わかりました」

 返事は良いが、実は鈴音はどんくさかった。

 マスターはスプーンの背がグラスの内側に当たる状態で混ぜるようにとスプーンの持ち方から教えてくれたのだが、マスターのお手本のように上手に回すことはなかなかできない。

 マスターは鈴音の手元をじっと見てから指摘した。

「バースプーンの持ち方はそれでいいですから、回すときは薬指で押し出して中指で押し戻すような感じで回してください。あまり手に力を入れないほうがスムーズに回せますよ」

 鈴音はマスターに言われるように手に力が入りすぎているらしくスムーズに回せない。

 回すことに意識しすぎると手全体でゴリゴリ動かしそうになるし、手首を固定すると今度はスプーンがずり落ちそうになる。

「できるだけ腕は固定して、親指と人差し指は軽く添える程度にするんです。」

「難しいですう」

 鈴音は早くも泣きを入れたがそれでも手元は動かし続けている。

 マスターはくすっと笑ってから鈴音に言った。

「そのバースプーンは鈴音さんの練習用にしていいですから、開店前や閉店後に練習してください。そろそろお店を開けましょうか」

「はい」

 鈴音は練習用セットを片付けると開店の準備を始めた。開店前の鈴音の任務は階段を下りた地下にある店内に収納してあった看板を地上の道路まで運び、電源を入れることだ。

 看板をセットした鈴音がゼイゼイ言いながら店内に入ってくると、マスターは店内をきれいにセットアップし終えていた。

「鈴音さん。フルーツの仕入れをずいぶん減らしたみたいですけど。大丈夫ですか」

 鈴音はここ数日の売上を分析して、必要以上の仕入れをしないように発注量を減らしたのだった。

 伝票を見ながら心配そうな様子のマスターに、鈴音は言った。

「このお店は固定客が多いみたいです。オーダーする飲み物のし好も急な変化はないはずなので、その発注量で充分だと思います。いざとなったら私が明治屋まで走って買ってきますよ」

 今までのマスターの発注量では、使い切れなかったフルーツを箱単位で無駄にしていたのだ。

 経理を任された以上、無駄な買い物はできない。

「そうですね。経理のプロのご意見に従いましょう」

 鈴音は経理関連の仕事をしていたわけではないが、マスターは勝手に経理のプロと決めつけている。

「マスターは今日の昼間も広田さんの奥さんを尾行してはったんですか」

「ええ。今日もスクーターで後を付けました。昨日は一人で買いもの、今日はママ友らしき女性とブランチを楽しんでいただけで、彼女が浮気をしている証拠はつかめませんでした。鈴音さんが言ったように浮気という点では彼女は白の可能性が高いですね」

 二日前、鈴音はマスターがアルバイトでやっている素行調査を手伝ったのだが、マスターは翌日からは同じ車を続けて使うと気づかれるからとスクーターを使った尾行に切り替えていた。

「彼女が浮気をしていないという証拠しか出てこなかったら、マスターは報酬をもらえないんですか」

「そんなことはありませんよ。ちゃんと調査料をもらいます。今日は広田さんが結果を聞きに来るはずですから、ありのままに報告しましょう。」

 鈴音はうなずいた。

 見学させてもらったマスターの探偵業は意外と地味なものだったが、また手伝いたいような気もする。

 一昨日の私立探偵初体験は、マスターと一緒に食べたホットケーキの味と一緒に鈴音の記憶に楽しい記憶として刻まれていた。

 店を開けたからと言って、すぐにお客さんが来るものでもない。

 経営上はそんな時間が長いとよろしくないのだが、お客さんが来るのをぼーっと待っている時間も鈴音は嫌いではない。

 やがて、入り口のドアベルが鳴って最初のお客さんが店内に現れる。

「いらっしゃいませ」

 今日最初のお客さんを迎えようとした鈴音の笑顔は、入ってきた二人連れの顔を見て凍り付いた。

 鈴音は慌てて傍らにいたマスターの片手をつついた。

「マスター。広田さんの奥さんが一緒にお茶していた吉良さんと現れましたよ。尾行したのがばれちゃったんでしょうか」

 ひそひそと囁く鈴音にマスターも同じように小さな声で答えた。

「尾行がバレたとは限りません。普段通りの態度で接客してください。」

 鈴音はうなずいたが、緊張してこめかみのあたりがどくどくと脈打っているのを感じた。

 こっそり後をつけた相手と対面することになると、これほどまでに気まずい思いをしなければならないのかと思い、鈴音は探偵業のやましい部分を思い知ったのだった。

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