第39話 恋するファン
「飛鳥っ!」
次に目覚めた場所は、あの汚い畳の部屋だった。いつにも増してボロボロで、僕は黒ずんだ布団の中で寝転がっていた。
ゆっくりと起き上がれば、布団の周りには黒くカビたペットボトルや、腐った菓子パン。女性の鞄が投げ落ちており、白いカビが生えていた。布団から這い出て、ぐるりと周囲を見渡す。
ジメジメとした酷い匂い、布団の側に置かれたパソコンやテレビも埃をかぶっていた。
それ以外には、めぼしい家具どころか、収納すらない見当たらない。概ね寝るために返ってきているような部屋だった。
ただ、壁の縁にハンガーで掛けられた花柄のワンピースや、女性物のコート。床に転がる鞄も、かわいらしいリボンがついた鞄だ。全てどこか既視感があった。
部屋の隅には錆びた折りたたみの鏡と、口紅やアイシャドウなどの化粧道具が、窓際の床に綺麗に整頓されている。
部屋の窓に近づき、恐る恐る外を覗く。夜の住宅の静けさ。どうやらアパートは廃墟らしく、庭らしきところは天高く雑草が伸びきっていた。そして、壁には草の蔓が絡みつき、生い茂っていた。
小さな小高い坂の上に建てられたこの家は、二階建てのアパートらしい。ただ、窓の外の景色で一番目を奪われたのは、
「あの、マンションって」
僕が住んでいるマンションの頭部分が、小さく住宅の合間から見えたのだ。アパートの位置的に、玄関側にある道は僕が帰宅時に使っている道と続いているはずだ。
くるりと身体を反転し、玄関へと走る。小さなキッチンと手洗い場しかなく、トイレや風呂場は見当たらない部屋だ。
服や荷物から推測するに、住人は女性だと思うが、環境が到底女性が住めるような物件ではない。
玄関に向かうと、ボロボロのエナメル素材の白いローヒールパンプスが一足だけポツンと置かれている。
ドアノブに手を掛け、ガチャリと捻る。そして、押したり引いたりと試すが、扉は固く閉じたままだ。今度は鍵のつまみも回してから、扉を開こうとするが、びくとも動かなかった。
どうやら、ここを出ることは出来ないようだ。
僕はもう一度目覚めた部屋へと戻った。
朽ち果てた部屋の真ん中、寝ていたせんべい布団を見ると、人型の黒く汚れた跡が残っていた。
ひやりと身体が冷たい感覚を覚える。
なんだか、その人型が『みるく』が死んだ時の、光景と重なった。
『梨雨くん』
背後から急に名前を呼ばれた。
この声に聞き覚えがあった僕は、名前を呼び返した。
「美咲さん」
しかし、背後には彼女の姿はなかった。
代わりに、三歳くらいの少女が、無表情のまま立っていた。
長くて黒い髪に、痩せ細った身体。汚れたボロボロの服を着ていた。
身体は灰色でくすんでおり、目の下のクマはくっきりとしており。落ちくぼんでいる。
「君は、誰、ですか?」
恐る恐る僕が尋ねると、少女は無表情で口を開いた。
『いっしょにいたよ、ずっと』
「え」
少女は笑うと僕に手を翳す。彼女の髪がぶわりと宙に広がり、毛先が僕へと向かって伸びた。そして、また目の前の景色が変わる。
場所は同じ部屋。まるで夢で見た時のように、誰かの視点だった。
しかし、先程よりも綺麗に整えられており、ものは少ないけれど清潔感は感じられた。
僕の視点の主は、鏡を手に取って自分の顔を確認している。
鏡に映っていたのは、酷く疲れた顔だ、美咲さんだった。彼女はため息をつくと、スマートフォンを触る。
これは、美咲さんの記憶なのだろうか。夢にしては、すべてが鮮明な景色だった。
彼女が見ているのは、僕が出ていた番組のSNSアカウントだった。
アカウントがポストしたのは本日放送予定の予告動画。随分懐かしく感じるが、ポストの投稿日時は
予告動画をクリックし、再生する。開始してすぐに、僕が初めて飛鳥と練習する時の回だと察した。だって、僕が進んで何度も見た回の一つだからだ。案の定、半べそをかきながら飛鳥にしごかれている僕の映像が、番組の予告動画として使われていた。
動画が始まれば、脳内に美咲の声が勝手に流れ始める。
『梨雨くん、今日はいつもよりも放送に映ってくれるかな』
『SNSで話題になってたからいけるかな』
『でも、男の子同士の友情って、視聴者にも人気だからいけるよね』
心配事は尽きないようで、ずっとうんうんお悩みつつ、心の底で湧き上がる気持ちを感じた。
『梨雨くんが居なければ、私は今も生きた屍だったよ。毎日が楽しいなんて、初めてなんだよ』
『だから、もし、一般人になって、私の前からいなくなっちゃったら……』
想像したくない。頭がつきんと痛むのか、彼女はゆっくりと額に手を当てた。
『梨雨くん。梨雨くんがいれば、私はずっと、幸せなんだ。だから、アイドルとして、ずっと』
『それ以上は、望まないから、どうか』
今一度僕への気持ちを強く念じた彼女はSNSを一通り見た後、同じく僕を応援してくれるファンたちが集まっているグループチャットを確認する。そして、落胆したのかため息を吐く。
『梨雨くんのファン同士なのに、なんでこんなにも喧嘩できるの』
『しかも、梨雨くんのアンチアカウントもあるのか。顔だけだなんて、歌もすごい素敵なのに。高校生の子に酷いことを言えるんだろう』
『思えば、投票お願い用応援ティッシュのデザインお願いしないと。そろそろ誰か作ってくれるかな。皆、他力本願すぎるんだよ』
同じ人を推しているからと言って、全員仲が良いわけではない。熱量も、推し方も人それぞれだ。だから、たまに暴走してしまう子も多い。また、面倒な作業を引き受けてくれる人も少なく、色々なことを彼女がこなしていた。
『この家に引っ越して、バイトもギリギリまで増やしたけど、応援するにはお金も時間も足りないよ』
美咲さんは普段は派遣の事務員をしているが、僕を推すために時間ある限り、アルバイトを詰めていた。居酒屋やコンビニを掛け持ちし、ご飯はまかないや、本当は駄目なのだが廃棄商品を持ち帰っていた。
『ああ、友人にも投票お願いの連絡しなきゃ』
『ああ、頑張らないと』
『梨雨くんがアイドルになれるなら、何でもできるよ、私』
美咲さんの気持ちが、鮮明に僕の中へと流れ込んでいく。それから彼女の日々を一緒に巡る。朝と夜、いつも一人きりの彼女にとって、僕は支えだったようだ。
『梨雨くん、ダンス、上手くなったね。飛鳥くんと梨雨くん、いいコンビだね』
『早く大きなステージで、梨雨くんが踊っているところを見たいよ。どんな衣装が似合うかな』
『今日は仕事場の人になんとかお願いしたよ。応援ポスター、お店に貼ること出来た』
『応援のお願いのティッシュ配り、警察に届けなきゃ』
『変なお客さん多いけれど、梨雨くんのためにも頑張らないと』
彼女の日々は、常に僕が中心だった。辛い時や悲しい時に、僕の歌声や自己紹介動画を癒やされていた。勿論、放送日には一喜一憂し、最初の順位発表では涙を流すほど歓喜していた。
いつかの夕方、彼女は鼻歌を歌いながら上機嫌で帰宅した。僕は何があったのか、すぐにわかった
『梨雨くんが、私たちの応援ポスターを見に来てたよ。よかった、貯金も給料も全部使って、大きいの選んで』
『しかも、遭遇できたなんて。声を掛けたら、ありがとうって笑ってくれた』
『お休みも飛鳥くんといた。仲良さそうだった。梨雨くん、友達できて良かったね』
僕が飛鳥と遊んだ日。僕と飛鳥の投票応援ポスターが同じターミナル駅で貼られていたので、記念の認証ショットを撮りに行ったのだ。
その際、美咲さんと出会ったのだ。控えめで短く、「応援してます、デビューしましょう」と応援メッセージだけを残して去って行ったのだ。この時の美咲さんは、どこか疲れ切っていて、服装もカジュアルだった。
幸せそうに笑う彼女。しかし、僕は逆に暗い気持ちになる。
僕にとって、大きな別れ道だったからだ。
『なんで、どうして』
スマートフォンの画面を淀んだ瞳で見つめ、絶望の問いかけを繰り返す美咲さん。僕たちが付き合っているのではないか、という炎上が出回った日でもある。
『どうして、こんなことするの』
『友達同士で遊んでるだけじゃない。言いがかりにもほどがあるよ』
『しかも、梨雨くんはまだ高校生なのに』
『もし、これでデビュー出来なかったら』
美咲さんは頭を抱え、小さくうずくまる。しばらく苦悶したのち、彼女は強く決心する。
『今よりも、もっと頑張らなきゃ。梨雨くんをアイドルにするんだ。彼の夢を叶えるの、私が、絶対に』
気持ちは信念から、執念へと変質していく。彼女は今まで以上に、僕の応援に対してのめり込んでいく。
番組の最終回は有観客の生放送。撮影場所はら千葉にある大きなライブ会場で行われており、観覧の応募倍率は二十倍だったと記憶している。
また、会場の外では、番組のファンたちがギリギリまで応援投票のお願いするため、同じファンや通行人に必死で頭を下げる。僕も控え室からこっそり確認しており、自分のファンがいて安心した。
美咲さんも会場で最後のひと踏ん張りと、応援用スローガン紙を無料で配っていた。
僕の写真と名前、裏側には『私たちのリウ王子』と書かれている。可愛いデザインやキラキラ加工。
この紙の束に、彼女の生活費が全て投入されていた。ただ、状況はよくない。炎上したばかりの僕のファンということで、他の子のファンからは腫れ物のように扱われていた。
『梨雨くんは、何も悪くないのに』
歯を食いしばりながら、悪寒とふらつきが止まらない身体で、美咲さんはギリギリまで応援を続けた。
しかし、願いは届かなかった。
運良く入れた最終回の観覧席から、名前を呼ばれず立ち尽くす僕を見つめる。
泣きじゃくる僕に、彼女は言葉を失っていた。
どうやって、家まで帰ったかもわからない。
ただ、全身から痛み、熱く、ふらつく。途中駅で中年男性にぶつかられ、膝と肩を強打してしまい、満身創痍だった。
汚いアパートまで辿り着いた彼女だったが、遂には布団の上で倒れる。
血がにじみ出るほどの激しい咳と共に口から吐瀉物が溢れ、胃酸が彼女の口内を焼いた。今まで感じていた体調不良とは違う。死を覚悟するような体調だった。
『どうして、どうしてなの』
スマートフォンを開くと、脱落者のインタビューが上がる。
まだ、若かった僕が泣きはらした顔で、インタビューされていた。
『応援してくださった皆さん、ありがとうございます。そして、僕の力不足でごめんなさい。僕はこれからも夢に向かって、頑張ります。皆さん、愛してます、ずっと』
泣きながら手でハートを作る僕。手首にはサポーターが巻かれている。思えば、あの日リハーサルで捻挫をしたのだった。
『梨雨くん、怪我しちゃったの。大丈夫かな』
『まだ、アイドルの夢、追ってくれるのかな』
『でも、私は、追えるのかな』
美咲さんは苦しい意識のなかで、僕の身だけを案じる。遙かに彼女の容態のがきけんなのに。
『ああ、私はこんなにも愛してるのに、彼は私のことを知っているのだろうか』
彼が日々練習してきたことを、私は知っている。
しかし、私が応援のために奔走し続けたことを、彼は知らない。
彼が怪我をしたことを、私は知っている。
しかし、私が今ここで体調を拗らせたことを、彼は知らない。
推し活なんて自己満足のためだと、わかっている。
わかっているが、一度芽生えた欲は急に身体を蝕んでいった。
『梨雨くんを、アイドルにするのは、私なんだ。私が、私が、彼の一番のファンなのに』
悲痛な叫びと苦しさの中、大きく咳を込む。
『ずっと、いっしょにいたいの』
『ずっと、幸せにしたいの』
『ずっと、ずっと』
『愛して、いるよ、ずっと』
彼女の意識は途絶えた。僕の意識はまた、汚い部屋へと戻される。目の前の少女は、相変わらず無表情で僕を見ている。
「これは、一体……」
『おねえーさんの記憶だよ』
「お姉さんって、美咲さんのことかな」
『そう。でも、美咲って私でもあるんだよ』
僕が首を傾げると、少女はようやく笑った。
『それよりも、梨雨くんはさ、飛鳥さんって人を助けたい?』
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