第37話 流れた血


 錯乱状態の男は、ステージに上り、僕へと向かってきた。

 逃げるべきか、どこに、どうやって。

 緊急事態についていけず、一瞬の迷いから生じた隙を衝かれた。

 視界はぐるりと動き、天井を仰ぎ見る。


 床に打ち付けられ、激しい痛みが後頭部から体中に広がっている。特に首はがこんと揺れて、全ての関節が変な音を鳴らす。

 あまりの衝撃で、ちかちかと目の前に火花が散った。


「どぅ、ジ、でェえ、ナ、んで、ゃめ、るォお!」

 彼の口からまき散らされる唾液が、自分の顔に降りかかる。汚いと思う余裕すらない。

 僕の下腹部の上に乗っているのか、内臓が全て潰れてしまったような感覚だ。

 けれど、全ての感覚が僕よりも遠くにある。視界はどんどんと小さく窄まり、身体は力が入らず、肉体の重さで肺が苦しい。


 けふっ。

 喉の奥からこみ上げてきた何かを、口から吐き出た。生暖かく、どろっとしたものが、口の周りを汚していく。


 スタッフの一人が、記者を僕の上から退かそうと藻掻くが、余計に激しく暴れ、スタッフを吹っ飛ばした。で彼が動くたびに、僕の口から何度も溢れる。耳や、目、鼻に流れ込み、息が酷く苦しくなっていく。


「ジ、ッゲぇ、ン、ジゲェ、ンっづいで、おじえでえええ」

 記者は白目を剥きながら、僕の肩を掴み揺さぶる。微かな意識さえ、少しずつ無くなっていく。


「梨雨!」

 飛鳥が、僕を呼ぶ。顔を傾けて、彼を見ることもできない。 


 最後に、仲直りしたかった。そして、一番大好きだって伝えたかった。

 どんだけ辛くても、やはり僕にとって飛鳥は誰も変わりがいない人なのだ。


 死ぬのかな、もう目玉すら動かなくなった時だった。記者の身体が真横に吹っ飛んでいた。


 僕の前に現れたのは、美咲さんだった。


「ァッ、ダマが、イダイィィィ!!!」

 記者の叫びが聞こえる。美咲さんは、一切動じることなく、僕を見下ろしていた。

 彼女の目からは、黒い涙が絶え間なく流れていた。

 ファンが泣いている。

 慰めなければ。

 しかし、声を出そうとしても、口に溜まったものがごふりと溢れるだけだ。


「梨雨くん、ごめんね」

 美咲さんは申し訳なさそうに、小さく頭を下げた。

 そして、急に何だか身体に暖かい液体に浸かった。湯船のような優しい感覚だ。感覚が和らいできて、少しずつ意識が回復してくる。


 しかし、

「オマ、エのぜぃ、デェえ、なん、デぇっえ!」

 吹き飛ばされた記者が、美咲さんへと飛びかかった。

 既に記者の身体は酷く折れ曲がり、首は反転し、腕や足の関節が三つや四つになっていた。

 頭や口からは黒いドロドロとして液体を垂れ流していた。相対する美咲さんは怯まずに、髪の毛をゆらりとなびかせた。

 美咲さんの髪の毛が、ドロドロへと変わっていく。そして、襲ってきた記者を、一瞬で返り討ちにする。


 記者の皮膚が締め上げに耐えられず、ブチブチと裂けて、中からドロドロが漏れていく。


 記者の口から、断末魔の叫びが木霊する。


 しかし、中から溢れたドロドロは、人型へと変形していく。


 それは、行方不明になっていたメンバーだった。


 あまりにも非現実的な光景。


 僕は気道を塞いでいた液体を、必死に喉を動かして吐き出す。広がる鉄生臭い匂いに、液体の正体が血であることに気付いた。


 相当の血を吐いた。寧ろ、死んでもおかしくないほどではないか。


 身体は疲れ切ってしまっていて、誰かが僕に駆け寄ってきた。


「梨雨、しっかりしろ、梨雨」

 僕に覆い被さり、緊迫した表情で僕を見る飛鳥。大丈夫だって、伝えたいのに、口の中の血が今も気道を塞いでいる。はくはくと唇を動かすことが精一杯だ。

 飛鳥はそんな僕を見て、躊躇いもなく顔を近づけた。唇の間に柔らかな肉が挟まる。


 ずずずっと、血を吸う音が聞こえた。

 暫くして、顔を上げた飛鳥は口元を赤黒く染め、頬を膨らませている。そして、僕から顔を逸らし、ぶっと勢いよく吐き出した。鮮血がシャワーのように流れる。


 やっと、息ができる。


「あ、すか」

 名前を呼ぶ。飛鳥は泣きそうな顔で、僕の顔に優しく手を添える。彼の後ろからは、何かが壊れ、暴れる音が絶え間なく響き渡る。


「梨雨っ、本当に、ごめん」

 ぼろぼろと涙を溢す飛鳥。透明で美しい雫が僕の上に降り注ぐ。ひんやりとしていて気持ちよい。


「ぼ、くっ、こそ、ごめ、ん」

「俺が悪いんだ、梨雨は悪くない。俺が、俺が」


 パアンッ

 飛鳥の背中の向こう側で、黒い液体が花火のように飛び散る。飛鳥も驚いて振り返った。メンバーの顔がごとりと宙を舞い、宙へとすうっと溶けていった。


 飛鳥の背中に降り注いだ液体。それは次第に蛇のような形となり、彼をぐるりと囲んだ。


「っ……!」

 飛鳥の口から小さく詰まるような声が漏れる。よく見れば、追い紐が飛鳥の身体をきつく締め上げていた。必死に飛鳥の後ろに、美咲さんが立った。


 いや、美咲さんなのだろうか。


 整えられた服は無残に破け、顔と身体の右半分だけを残し、他は黒いドロドロへと変わっていた。人間では無い異形のものであるのは、疑いようのない姿だった。


 そんな彼女の目は、憎悪で満ち溢れており、飛鳥をきつく睨んでいる。


「み、さき、さん」

「梨雨くん、ごめんね。怖いよね」

 声色だけは、まるで赤子を宥めるように、優しく僕に声を掛ける。しかし、ギチギチと飛鳥をきつく締め上げていく。苦しそうに藻搔き、巻き付くものを外そうとする飛鳥。あまりの惨状に、僕は必死に声を絞り出した。


「あす、かを、はなし、て」

 僕はどうにかお願いするが、彼女は首を横に振った。


「この人だけは、許せないの」

 美咲さんの声は、とにかく優しい。だからこそ、彼女の般若のように怒りに満ちあふれた表情が、もっと恐ろしく感じる。ただ、少しだけ飛鳥の締め上げを緩めたのか、苦しそうに藻掻いていた


「梨雨くんを、こいつのプライドのせいで、ボロボロにして」


 プライド・・・・

 飛鳥へと視線を向けると、飛鳥は目を見開いた後、口を半開きのまま、目を大きく開いた。まるで、秘密を勝手にバラされた子供のような表情だった。


「そうだ、俺が悪いんだ」

 小さく蚊の鳴くように、飛鳥は話し始める。


「俺のちっぽけな、プライドのせいだ」

 苦しそうな一言一言、ただでさえ喉に病気があるため、掠れて痛々しい音だ。


「俺は、梨雨よりも、下の順位でデビューしたくなかった」

 僕は大きく目を見開く。


「順位発表の、梨雨が俺よりも上の順位で呼ばれた時。なんで、俺よりも・・・梨雨が上なのか、受け入れられなかったんだ」

 耳を塞ぎたくなる。僕の順位を喜んでくれていなかったのか。しかし、たしかに僕の順位について、飛鳥から何か言われてはいない。


 残留できたことだけを、二人で祝ったくらいだ。


「俺のが経験があって、俺のがダンス上手くて……でも、全て未経験の梨雨が俺を超えていく。いや、最初から俺よりも、梨雨はアイドルとして愛されていた。俺はずっとスキルだけしか見てもらえなかった。その違いが、順位となって、俺を刺してきた」


 本当に飛鳥なのか。吐き出された事実は、全て知りたくなかったものばかり。


「梨雨より低い順位でデビューするくらいならって、酒の席で、あいつに……」

 言葉が途切れるが、僕はこの続きの話を幼なじみの彼女から伝えられた。話を聞いた彼の幼馴染みが、突っ走り暴走してしまった。

 そして、彼の願い通り、僕たちは二人とも最後落ちてしまった。


 しかし、それなら、何故彼は僕とずっと一緒にいたのだろうか。


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