第36話 濁り流れる


 特典会が終わり、僕は楽屋へと続く道を歩いていた。

 スタッフ達からは気遣いからか、「気にしないで」と優しく慰めてくれたが、どうしても気分は戻らない。

 正直、今もなお、アヤネの叫び声が耳の奥にこびりついている。


 全てが、僕の心に深く刺さり、酷く痛い。


 不幸にするくらいなら、アイドルなんて辞めてしまえ、か。


 本当にその通りだ。


 楽屋に戻ると、すでにリーダーが中で寝ていた。元々僕のイベントだから、先に特典会が終わったのだろう。

 彼の前にあるテーブルの上には、先ほどはなかった酒瓶が一つ転がっている。ラベルには有名な会社のウイスキー名が描かれていた。

 酷いいびきを轟かせており、何かの病気ではないかと疑うほどだ。


 多分、特典会でファンから貰ったのだろう。

 とりあえず、寝ていて良かった。起きていたら、それこそ殴られかねない。


 メイク用の鏡の前に置かれた折りたたみ椅子に座った。


 次のライブまで、僅かばかりまだ時間に余裕がある。

 メイクやヘアセットも直して、もう一度笑って舞台に立たないといけない。


 はあ、っと大きくため息を吐く。

 あと少し経ったら、夜の部に向けて準備するために、スタッフも来るだろう。


 鏡の中を覗く。

 昨日よりも生気を失った瞳が、僕を見ていた。化粧がすでに崩れているからか、黒いクマも寧ろ、あんなことがあった後に、元気なままでいれる人のがどうかしていると思う。


「夜の部、か」

 大きく肺に空気を入れて、一気に吐き出す。息と共に身体から力が抜けて、だらりと肩が落ちた。


「嫌だなあ」

 思わず、口から漏れた。多分だが、アヤネは会場にいないし、先ほどの騒動は他のファンにも多少影響があるだろう。

 ただでさえ、ずっと事件に巻き込まれ続け、メンタルもすっかりと壊れかけていた。

 あの、『みるく』の自殺から、どんどんと全てが悪い方へと転がっている。


 それでも、夜の部だけ来る観客も居る。僕はおもむろに両手で自分の頬を叩いた。

 乾いた音が鳴り、少しばかり頬が熱を帯びる。あと一回だ、終われば、もう。


 鏡の向こうの自分を見た。

 自分の後ろにある楽屋の扉。ぎいっと音を立てて開く。スタッフが来たのだろうか、僕は覇気のなく曲がった背中を伸ばす。

 しかし、次の瞬間、僕は動きを止めた。鏡越しに、視線が合う。黒く人型らしき何かが、二つ歪な位置に着けられた扉からこちらを見ていた。じっと何をするわけでもなく、僕をただ見つめている。


 なにか、いる。


 まるで金縛りのように急に硬直した身体。黒いどろどろは部屋に入り、ぬるりぬるりと僕へと近づいてくる。明らかに人ではない、動くたびに形が崩れていき、最後は少し溶けたコーヒーゼリーのようにも見えた。

 どろどろは僕の後ろに立つと静かに、僕の顔の横に不気味な目玉が寄ってきた。


「あいしているよずっと」

 小さく、一息で囁かれた。僕はその声を聞いて、身体から力が抜けていく。

 どろどろから発せられた声は、よく知っていた。

 振り向こうとした時、楽屋の向こう側から、誰かの話し声が聞こえる。どろどろは一瞬で床へと沈む。汚い黒い跡を残し、部屋から消えていった。


「そろそろ準備を、って、なんですかこの床!?」

 楽屋に入ってきたスタッフが、床の汚れに気づき困惑している中、僕は汚れた跡を静かに見下ろす。まるで墨が足りず掠れてしまった筆字のようだった。

 汚れは僕が入室した時にはもうあったと伝えると、皆一様にリーダーが酔っ払って何かやらかしたのだろうと、意見が一致していた。


 汚れのことは後回しに、ライブのために衣装とメイクを直した僕は、舞台袖でスタンバイする。あと少しで、夜の部が始まろうとしていた。

 会場内は観客のざわめきに満ちているが、昼間の明るい感じとは違い、どこか暗い雰囲気を纏っていた。

 特典会での出来事はすでに広まっているだろう。

 リーダーも準備中にSNSを確認して、事態を把握したらしく、同じく準備中の僕に怒鳴ってきた。

 まだライブがあるし、他のスタッフがいたからか、殴りかかってくることはなかった。


 しかし、「終わったら、覚悟しておけよ」と恐ろしい宣告はされてしまっている。多分、ボコボコにされてしまうだろう。                                                                                                                        


 それでも、今の僕はアイドルだ。

 客席が暗転し、BGMが止まる。始まりの合図に客席から歓声が湧き上がる。僕たちは二人舞台へと上がった。

 曲順も衣装もそのままで、途中僕のソロの内一曲だけ変わるくらいだ。


 曲がかかり、僕たちにスポットライトが当たる。席の一番前の中央には美咲さんはいるが、アヤネの姿は無い。


 美咲さんは心底心配そうに僕を見上げている。僕は歌いながら、彼女に手を振った。

 そして、客先の後ろまで見渡す。昼間よりも人が多いのか、テーブルの数が少なく、椅子がその分追加されていた。

 夜らしくお酒を呑んでいる観客が、楽しそうにビールを飲んでいるファンとも目が合った。


 視線は一番後ろの壁に立つ人へと、視線が吸い込まれた。


 男は慌ててきたのだろうか、必死に呼吸を整えながら、視線を僕に向けた。

 反射光で光る彼の緑髪、鋭い視線はまるで鷹のよう。


 飛鳥。


 動揺したせいか、サビの歌い出しの音を外しそうになる。

 どこかげっそりとやつれ、苦しそうな表情を浮かべている。


 なんで、来たの。

 心がかき乱される。必死に歌がブレないよう、落ち着けと心の中で自分に言い聞かす。しかし、思考はぐちゃぐちゃと乱され、目の前が真っ暗になった。なんだか、音が遠くに聞こえる。


 あ、歌詞なのだっけ。


 ファンがざわめき、リーダーも僕の方を見る。動かなくなった僕に、皆の視線が集まる。

 どうすればいいのか、僕は顔をゆっくりと下げる。落ちていく視線の中、美咲さんと目が合った。


 どろりと、彼女の目から黒い涙が流れた。


「きゃあああっ!」

 会場内に響き渡る悲鳴、何事かと悲鳴が聞こえた方を向く。視線の先にいたのは、先ほど僕のブースを訪れた記者だった。

 彼が目を見開き、観客の女性を無理矢理押しのけ、ステージへと突進してきた。


「お、ア、ナジ、ギが、ぜてえええ」

 口から唾液を出し、手を振り回し、観客は椅子から転がり落ちるように逃げていく。

 スタッフたちも慌てて男を取り押さえようと動くが、ネジが外れた男を制御することはできない。

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