第35話 水が濁る

 入ってきたアヤネは真っ先に僕の手に向かって、勢いよく手を伸ばす。

 ただ、握られた手は、差し出していた右手ではなく、お手振りしていた左手の方だった。勢いよく掴まれたため、身体の軸がぐらりとブレて前へと傾く。危うくアヤネにぶつかりそうだったが、つま先にぐっと力を入れて、どうにか寸前で耐えた。

 

「鍵開け、今日は取られちゃってさあ。あ、私の用意したフラワースタンドは見た?」

 思わず背中に冷や汗を流し僕に対して、アヤネは普通に会話を続ける。寧ろ前のめりから慌てて体勢立て直した僕の顔を追うように、むりやり顔を近づける。あと少しで唇がぶつかるような距離だった。いつもよりも気合いが入っているのか、むせかえるような甘くバニラとアンバーの香りが彼女から香ってきた。

 

「ありがとうございます。ごめんなさい、まだなんです」

 申し訳ないと伝えるために眉尻を下げると、彼女の顔が一瞬動きを止めた。

「そっか、忙しいからね。もう、ちゃんと後で必ず見てよ」

「はい、認証ショットも撮りますね」

 撤去される前には、流石に見に行かないといけないか。心が少しだけ、不安に苛まれる。正直、今年は嬉しさよりも、去年に比べてどうなのかという不安のが大きい。あまりにも私的な不安だ。一つでもあれば、御の字なのだ。

 ど顔には出さないよう、優しく微笑む。しかし、時間はあと少しだ。ブース内にはスタッフもいて、アヤネに向かって「あと十秒です」と声を掛けた。先ほどの美咲さんは時間内に自らブースを退出するが、彼女は制限時間を超えても居座ることがあるので、多少対応が変わってくるのだろう。

 

「あのね、素敵な誕生日プレゼントを用意したの」

 アヤネはそう言うと、僕の左の手首を彼女の右手で掴む。解かれた手は無防備に広がった。

 何事かとぎょっと驚いていると、彼女の左手が一度ポケットに入り、何かを取り出す。キラリと光を放つ銀色の指輪。

 

「誕生日おめでとう、リウ」

 指輪は左手の薬指に嵌められた。少し緩めではあるが、しっかりと奥まで入れられている。

「これって」

「じゃ、次は鍵閉めにくるね」

 にっこり笑ったアヤネは持っていた紙袋も、そのまま僕の腕に掛けて出て行った。

 呆気にとられた僕は、思わず指輪を見つめる。シンプルかつ細いリングに、ダイアモンドにも見える小さな宝石が埋まっていた。宝石は光に当たってキラキラと輝いていた。

 どう考えてもこれは、エンゲージリングだった。

 

「梨雨さん、指輪はちょっと」

「あ、ああ、そうですよね」

 顔を顰めた僕に、ブース内のスタッフが優しく注意する。僕はようやく我に返って、指輪をすぐに薬指から外した。まだ、同時に渡された紙袋の中身を確認すると、指輪を入れるケースがぽつんと入っていた。

 僕はケースを手に取り、リングをしまう。

 握手する際は基本的に互いに怪我しないよう、アクセサリーの着用は不可なのだ。

 スタッフは僕が持っていたケースのロゴを見て、ハッと驚いた。

「ちょっ、そのブランドのリング、一個二百万近くしちゃうやつですよ」

「ほ、本当に!? ちょっと、それは受け取れないですね」

「しかも、エンゲージリングは、やりすぎですよね」

「流石に後で返しておきます」

 予想以上の値段に、指輪を持つ手が震える。これは、アヤネに返却しないといけない。なによりも、エンゲージリングだと気づいた時、僕の指はずしりと深いな重さを感じたのだ。まるで、とでもいうような、感覚だった。


 傷付けないよう慎重にリングをケースに戻し、次の人を迎え入れる。

 

「リウくん、誕生日おめでとう!」

「ありがとうございます」

 今ブースへ入ってきた男性も、数回ほどライブに来てくれたことがある。お手紙を受け取りながら、優しく握手を交わし、幸せそうにブースを出て行った。

 握手会も色々な人が訪れる。何回も握手しにブースにやってくる人や、先ほどライブに居なかった人もちらほら顔を見せてくれた。中には、抜けてしまったもう一人のメンバーのファンが、彼は元気かと尋ねてきたりもした。

 プレゼントを有無も様々で、中には僕の好きな感じの服や、便利グッズなど。中には、パーティーグッズでお祝いしてくれる人もいた。

 思ったよりも特典会の参加人数が増えたのは、特典会目当ての人や、友人の付き添いついでの人、暇つぶしの人。それなりに人が集まってくれたおかげで、賑わっている声が常に外から聞こえていた。


 しかし、急にシーンと静まり返る。

「ひっ」

 ブースの入り口から短い悲鳴が上がる。


「すみません。中へ、どうぞ」

 外で特典券の回収しているスタッフの上擦った声とともに、誰かがブースに入ってきた。

 

「どう、も、花っ、枝さん。お久しっ、ぶりです」

 いつかの、飛鳥の家にまでやってきたゴシップ誌の記者だった。予期せぬ来訪者だが、それ以上に予想外のことが起きていた。

 

「お久し、ぶりです」

 しかし、彼の雰囲気は本当に異様だった。

 

「おたん、じょっ、び、おめ、でとうございます」

「ありがとうございます」

 にこやかに笑っているが、明らかに目は窪み、身体は全体的に土気色。額からは汗を垂れ流しており、目の焦点は定まっていない。黒い光彩はどろんと濁り、白目部分には血管が浮き上がっていた。

 

 まるで浮浪者か、ゾンビのように見える。

 

 髪の毛も、服装も、以前は社会人として整えられていたのに。

 体臭も、例えようのない、思わず嘔吐くような酷い匂いだ。うっと息を強く止める。

 

「ぜ、たいに、あとで、おハナ、し、きかせ、て、くだっ、さぁい」

 一言を発するたびに息が詰まるのか、声は震え、ひくひくと口の端を痙攣させている。記者はふらりふらりとした足取りで、僕のブースを出て行く。

 

 あとで、とは。僕はじっと彼の背中を見つめる。ふらふらとした足取り、ガンっとブースの仕切りに身体をぶつけるが、一切痛がる様子はない。

 

「なんですか、あれ」

「わかんないです」

 あまりの異様な雰囲気に、ブース内のスタッフも戸惑っているのか、何度も僕とブースの出口とで視線を彷徨わす。僕も全身から血の気が引いていた。

 

「次で、最後です」

 しかし、時間は有限である。入り口の外にいるスタッフの言葉に、僕はもう一度アイドルの自分に戻った。そして、最後の一人としてブースに入ってきたのは、やはりアヤネだった。

「鍵閉めに来たよ」

 

 ニコニコに笑うアヤネの手には、何故か婚姻届とボールペンが握られていた。

 本物の婚姻届を生で見たことはないが、どういう見た目なのかは、テレビなどで知っている。すでに配偶者欄は記載されており、証人欄までも埋まっていた。

 

「ねえ、リウくん、私と結婚しよう!」

 

 るんるんと笑顔で話しかけてくる彼女に、僕はなるべく申し訳なさそうに見えるよう応えた。

 

「ごめんね、僕はアイドルだから。誰か特定の人と結婚は出来ないんだ」

 アヤネはかちりと動きを止めた。そして、嬉しそうに細めていた瞳をゆっくりと開ける。

 彼女の急な変化に僕は少し動揺しつつも、先ほどの紙袋を手に持ち、彼女に向けて差し出した。

 

「ごめんね、流石にこれは、受け取れないよ」

 彼女の瞳だけをすっと下に動かす。紙袋に向けられた視線は、じっと動かない。

 

「アヤネさん」

 彼女の名前を呼ぶと、彼女は僕の手から紙袋を引ったくる。そして、袋の中にあるリングケースを取り出し、ケースの蓋を開けた。

 

「リウくん、私のこと、愛してるって言ってくれてたよね」

「うん、愛してるよ。だって、アヤネさんも大切な僕のお姫様だからね」

「今までのプレゼントは良くて、これを貰ってくれないのはなんで」

「流石に高い物だからね、アヤネさんが来てくれただけで誕生日プレゼントだよ」

 

 沈黙の一秒が、いつもより長く感じる。


「なんで、よ。幸せにしてくれるって、言ったじゃない」

 

 次の瞬間だった。彼女はケースの蓋を閉めるように握り込み、素早い動きで腕を振り上げる。

 僕の顔の横、重量を伴った風が横切った。

 

 ガンッ

 

 僕の背中側にあった仕切りから、鈍い音が響き渡る。ごとっと足元に何かが転がり、僕の足にぶつかった。

 何が起きたのか。見たままの話をすれば、アヤネが僕に持っていたリングケースを投げつけたのだ。

 

 アヤネは、僕をギッと睨みつける。鋭い視線には、いつもの陽気な雰囲気は微塵も感じられなかった。

 

「私が必死に貢いでるから生活できているクセに、何が、一丁前にアイドルだからよ! リップサービスくらい出来るでしょ、大して売れてもないのに!」

 目尻を吊り上げて、僕に怒鳴りつけるアヤネ。掴みかかってきたが、スタッフが必死に羽交い締めにして彼女を止める。勿論、彼女も怒りのまま抵抗し、激しく腕や頭を振り回す。あまりの事態に、僕の体は完全に縮み上がった。

 

「いい子ちゃんぶって! 私たちがどんだけ頑張っても、いつも、そうやって!」

 怒りと、悲しみと、泣き叫ぶ彼女。

「愛してるなんて、いつも口先ばかり」

  騒ぎを聞きつけた他のスタッフが慌ててブースに入ってきて、複数人がかりで彼女をブースの外へと引きずっていく。


「あの女も、私のことも、本当はどうでもいいくせに! わかってても、ずっと応援してきたのに!」


 会場内に響き渡る悲痛な言葉。仕切りの向こう側のざわめきがどんどん大きくなる。

「せめて、今だけでも夢を見せてよ! 受け取るだけ受け取ればいいのに、なんで、なんでなのよ!」

 彼女の両目からは、涙が溢れていた。

 

「ファンを不幸にするくらいなら、アイドルなんかやめちまえ!」

 

 ブースを出る最後の最後、捨て台詞を吐きながら涙を流すアヤネ。

 残ったのは、床に落ちたリングケースと踏みつけられた婚姻届だけだった。

 

 

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