第34話 溢れた水


「これで泣いても、絶対に大丈夫ですから!」

 スタッフの手によって、綺麗に元に戻された顔。アイメイクには崩れは無かったようだが、念のためと目尻部分と頬は、お直ししてもらった。


「ありがとうございます」

 僕は小さく頭を下げる。しかし、頭の中はやはり、黒い涙らしき跡だけがこびりついていた。

 あの時、絶対に僕は泣いていない。勿論目が潤んでもいなかった。すぐにティッシュで抑える。

 もしかしたら、汗かとも思ったが、リハーサルで軽く歌っただけだ。どう考えても、あんな涙を流したかのような、変な崩れは見たことがない。

 心当たりがあるとすれば。


 ぐっと、息を呑む。

 僕の前に何度も出現した、黒いドロドロしか、頭には思い浮かばなかった。


 黒い何かは最後衣装の襟首へと到達しており、一部汚く汚していた。他のスタッフが黒い色を落とそうと試みたが、色が広がっていく一方でお手上げだった。仕方ないと最終的に汚れた部分を白いフェルトペンで塗りつぶした。

 近くでよく注意して見ないとわからない程度になったが、メイクしたスタッフがかなり申し訳なさそうに謝罪していた。

 数少ないお客たちが忙しなく動きはじめ、会場の外からも女性たちのざわめきが聞こえる。


 もうそろそろで、第一部の入場が開始だ。

 会場入りが始まり、スタッフが店の入り口でチケットの整理番号を呼ぶ。ただ、三十を超える前に呼び出しが止まった。

 メンバーの一人が居ない上に、僕も復帰してすぐで告知もあまり出来ていない。しかも、ここ数日はSNSのアプリすら開いていなかった。

 バッチに表示された通知数もとっくにカウント上限に到達し、メッセージアプリに連絡をくれた友人のみに少しだけ返信していた。それでも、短いメッセージしか返せていない。

 今までアイドルの僕と出会ってきた人たちと、どう交流していいかわからなくなってしまったからだ。


 舞台袖に立ち、BGMを聞く。袖と言っても。入り口の一部を仕切りで目隠ししただけなので、角度からはファンの姿も見える。角度的に一番前の席にアヤネが座っていて、彼女も僕に気づいたのかぶんぶんと大きく手を振っていた。手を振り返し、僕は自然に姿を隠そうと、スタッフに呼ばれるフリをして二歩ほど後ろに下がった。

 暫く経つと、会場内が暗転し、ステージへと移動する。やはり観客は二十人ほどだからなのか、いつの間にか飲食用のテーブルも出されていた。観客席の空席感をどうにか誤魔化すためだろう。

 観客の中には、飲み物だけを頼む人、ご飯を頬張っている人も居た。この店の仕組みとして、ご飯や飲み物が売れると、一部マージンが発生するのだ。

 彼女たちが支払った食事代の一部が、僕たちに入ってくる。正直、歌を聴いてほしい気持ちもあるが、少しでもお金になるのは心の底でありがたかった。


 最初の一曲目二曲目は僕たちの曲で、三曲目は懐かしい曲のカバー。

 お客のほとんどは僕のファンで、リーダーのファンがあまり見当たらないのは、多分特典会だけくるからだろう。

 一番前の真ん中には美咲さんが座っており、他には何回かライブに参戦している女性や初めて見る若い男性もいた。

 実際に短い会話パートの後は僕がソロ曲を歌い続けた。

 盛り上がる曲を二曲。歌が終われば、今度は僕のソロトークの時間。


「改めてお久しぶりです、リウです! 今日は僕の二十歳のバースデーイベントにようこそ!」


 笑顔を貼り付けて、元気なフリを演じる。ライブは楽しい、けれど不摂生な生活をしていたからか、体力が随分と落ちていた。しかし、ファンにこれ以上心配をかけてはいけない。どうにか気力を絞り出した。


「僕たちのお姫様に会えると思ったら、元気が出てきたんです。今日は皆さんに会えて嬉しいです!」


 数少ないファンたち一人一人と目を合わせる。目が合うたびに楽しそうに笑う人、手でハートを作る人、大きく手を振っている人。それぞれが僕への愛を向けてくれる。この瞬間は、アイドルをしていて良かったと思うシーンだろう。

 勿論、中につまらなそうに見ている人や、リーダーファンでわざとわかるようにトイレに行く人もいる。こればかりは、僕の力量不足としか言い様がない。


 その中で、真ん中に座る美咲さんだけが、非常に心配そうな表情で僕を見上げていた。多分、僕がまだ調子の悪いことは、彼女は知っているのだろう。逆にアヤネは元気に歓声をあげていた。


 歌は、上手く歌えた。

 現実逃避するために、散々練習したのが功を奏したのかもしれない。


 美咲さんに笑いかけて手を振ると、彼女も小さく振り返す。けれど、彼女の顔は更に辛そうに目と眉をぐっと寄せていた。

 その表情がどうしてか、心の中に引っかかる。

 しかし、ライブは滞りなく進んでいく。ファン一人のために、進行を止めることはできない。

 リーダーと二人で曲当てゲームをした後、自分たちの曲を披露する。


「最後に、バースデーと言えばケーキと歌ですよね!」

 最後は、僕のバースデーソングをみんなで歌い、お店が用意したバースデーケーキに刺さったろうそくを消す。ケーキはイチゴのショートケーキ。チョコレートプレートのメッセージには、「リウ 誕生日おめでとう」とかわいいフォントで書かれていた。

 久々に食べたケーキは、とても甘くて、胸焼けしそうだった。


「今日は、僕のバースデーイベントに、来てくれてありがとうございます! 皆さん、これからもずっと愛してます!」

 最後一曲を披露した後、僕たちは舞台を去る。一部のイベントは終わった。


 ライブ後は客席内で特典会をするので、スタッフたちによって準備が進められる。

 僕はリーダーと共に楽屋に戻り、一度メイクや髪型を整えた。それなりに動き回ったのにも関わらず、メイクは薄くはなれど、少しも滲んでいなかった。


「さっきの、やっぱり何だったんでしょうかね」

 メイクスタッフは不思議そうに首を傾げる。

 僕は一人黙って、鏡を見ていた。汗にぬれてはいるが、美しいヴェールは崩れていなかった。


 特典会が始まる。店内には軽い仕切りが用意され、リーダーと僕は簡易的に隠されたブースの中に入る。


「列が途切れた場合、そこで終了になります。特典券をお持ちの方は、すぐにお並びください」

 スタッフの声と、女性の話し声が聞こえた。多分だが、鍵開けは基本アヤネさんだろう予想していた。                                                                       暫くして、「それでは特典会を始めます」というスタッフの声と共に、一人の女性が入ってきた。


「梨雨くん」


 僕は目を見開き、そして、嬉しくて笑った。

「美咲さん、今日はありがとうございます!」

 控えめに微笑んだ彼女。手には、小さな濃紺の紙袋が握られている。紙袋には有名なコスメブランドのロゴのエンボスが施されていた。

「二十歳の誕生日おめでとう」

「うれしいです。美咲さんには、本当に感謝しかないです。僕のこと、最初からずっと応援してくれてて、今日を迎えられたのは美咲さんのおかげです」

 僕は彼女に手を差し出し、握手を促す。しかし、彼女は僕の手を握り返さず、代わりに持っていた紙袋を僕の手に乗せる。


「これ、プレゼント」

「え! 何々~!?」

 紙袋の中を見ると、そこにはかなり高い睡眠導入系の栄養ドリンクと、二つの箱。そして、手紙が入っていた。

「わあ、こんなにいいんですか!?」 

「うん。最近、梨雨くん、寝れてないから、今話題のドリンク、買ってきたよ」

「ありがとうございます、助かります!」

「いえいえ、夜もいますか?」

「うん。夜も来るよ。じゃあ、また夜にね」

「はい、また夜にお待ちしてます」


 美咲さんはそう言うと、ブースを後にする。スタッフから剥がされる前にさらりと出て行くのは、とても彼女らしかった。そして、次に入ってきたのは。


「リウ~!! きたよ!!」

 会場内に響き渡る程大きな声で、相変わらず元気なアヤネ。彼女の手には白い紙袋が握られていた。

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