第33話 目から溢れる


 イベント当日の朝。


「まともに連絡も返さないって、どういうことだ!」

「申し訳ありません。体調が良くなくて」

 楽屋の扉を開けてすぐ。大きな鏡越しに目が合った瞬間に怒鳴りつけるリーダーに、僕は淡々と言葉を吐いて頭を下げる。

 罵倒するリーダーの口や部屋から漂うアルコール臭に、僕はちらりと机の上を見た。

 案の定、握り潰されたビール缶がいくつも転がっていた。この場で飲み干すには、かなりの量である。


 ああ、とうとう、イベントが始まる前に飲み始めたか。


 心の中で少なからず落胆しつつも、この状況を僕は静かに受け入れる。何故なら、今リーダーが僕に怒るのは仕方がないからだ。

 飛鳥のことがあってからの間、自分の誕生日なのに、ほとんど連絡を返せていなかった。全体的な調整をしているリーダーの立場からしたら、怒るのが当然だ。


「いいから、早く着替えろ。俺たち二人しかいねぇんだしよ」

「わかりました」

 威圧的に指示を出してくるのを反論せず、言われたとおりすぐに支度を始める。 

 グチグチと後ろから追撃されるが、全て素直に受け流していく。


 衣装ラックから手に取った衣装は。いつもの王子様衣装だ。本当は、誕生日の今日くらいは新調したかった。

 スタッフも流石に思うことがあったのか、ラックの近くに誕生会向けのタスキと三角帽子が申し訳程度に用意されていた。入っているレジ袋は有名な百円均一の物だった。会場近くには百円均一が見当たらないので、わざわざどこかで買ってきたのだろう。


 衣装に着替えて、大きな鏡の前に座った。


 鏡に映る自分は、酷く疲れた顔をしていた。目の下には、はっきりとわかるくらい青黒いクマや浮き上がっている。食事もまともに取っていないから、不健康に頬が少し痩けており、瞳のも生気がない。唇も血行不良からか青みがでており、肌もポツポツと荒れていた。

 メイク担当のスタッフは、「体調、悪いんですか?」と声を掛けるほど、とても健康そうには見えなかった。僕は、「眠れなくて」と誤魔化し、メイクとヘアセットをしてもらう。


 ここから、イベントと特典会が二回。果たして自分の体が持つのか心配だった。


 今日のイベントは昼と夜との二部制のライブ、特典会は握手のみ。

 一応だが、握手会ブースで誕生日プレゼントを直接渡せるらしい。去年はファンの人たちが、食事提供ケータリングやフラワースタンド、バルーンスタンド、バースデーケーキを用意してくれた。今年はどうなのだろうか。去年に比べて自分たちの人気が落ちているし、最近の物騒な騒ぎや、メンバーの失踪のことも。

 こんな事件ばかり続けば、新しく僕たちを好きになってくれた人よりも、離れていった人のが多いだろう。


 ケータリングは飲食店の関係で受け入れが駄目だった。また、ファンからのケーキがあるかは何も聞いていない。

 入り口や待機列の方にはまだ近づいていない。勿論、お祝いスタンドも見ていないし、チケットの売り上げも耳を塞いでいる。

 いや、聞けなかったのだ、正直怖くて。


 去年、誕生日お祝いのスタンドを三つ。

 一つは美咲さんが他のファンたちと共に、資金を募ってくれたファンダム共同のバルーンスタンド。僕が大好きな白とシルバーがセンスが良く、少し前まで僕を推していたファンのイラストが特徴的だった。

 二つ目は、アヤネ個人が用意した大きなバラの花束のようなフラワースタンド。中央には僕とのツーショットチェキを拡大した写真が飾られていた。

 そして、最後の一つは、『みるく』個人が出したバルーンスタンドだ。ピンク色の可愛らしいハートのスタンドは、他二つに比べて、小さくてかわいかった。

 去年のイベントの特典会で、『みるく』が嬉しそうに僕へと報告してきたのを思い出す。あの頃はストーカーの片鱗はなく、僕を好きになったばかりだったと言っていた。


 僕のせいで、壊れてしまったのか。

 誰も彼も。


 鏡の中で、少しずつアイドルとしての姿へと変わる自分。メイクの力は凄い。

 全てを取り去ることはできないが、痩けていた頬はふっくら見えるように。目の下にあったクマは綺麗に消え去り、肌荒れだって消されている。本当の自分が美しいヴェールの下に隠された。


 ああ、まさに、偶像アイドルだ。


「先にマイク確認しにいきます」

 支度を終えた僕は、酒を飲みながらパソコンのキーボードを叩くリーダーから逃げるように楽屋を出る。

 今日は流石に貸し切りらしく、対した機材設営もないので、音響チェックのみだけ行う。

 スタッフが準備している中、僕はステージの上に立つ。本当に狭く、踊るにはかなり心許ないスペースだった。

「歌の確認したいんですが、今大丈夫ですか?」

「大丈夫ですよ」


 スタッフから渡されたマイクを手に持つ。「あ、あ、あ」と短い言葉を吐き、スピーカーから広がる音を感じた。

 そして、一気になめらかなバラードを少し口ずさむ。日本で有名ではないが、海外ではニッチな人気を誇る女性シンガーが作詞作曲した曲だ。確認の時によく歌っているのは、高音域と低音域の切り替えと、難解なうねりがある曲だから。

 全体的に綺麗に聞こえるか、逆に何が駄目なのか。できる範囲ではあるが、細部までこだわらなければ。自分が下手だと思われてしまう。音のチューニングを何回か行い、いくつかの曲をアカペラで音の出方を確かめる。自分が苦手なところや、一番魅せたいところを中心に練習する。

 暫くして、リーダーもリハーサルにやってきたが、気持ちが入っていないのだろう。全てをおざなりに、「良きように」というだけで、さっさと楽屋に戻ってしまった。


 今までなら悲しくなっていただろうが、すでに僕もどこか壊れてしまったのか。

 何も感じなくなっていた。ステージから客席を眺める。決して多くはない客席数。

 しかし、当日券はあるというのはすれ違ったスタッフが、チケット販売用の場所を用意していたのが見えたので、嫌でも理解した。

 これですら埋められない自分に、失望し続けてきた。それでも、前を向けていたのだ、今までは。


 を知らなければ。


「花枝さん、ちょっとっ!」

「え」


 急にスタッフに声をかけられた。僕は慌てて、スタッフの方を向く。


「メイク、目が滲んで酷いことになってますよ! 直してもらってください!」

 目が滲んでいる。別に涙を流したつもりはなく、潤んでいるように感じない。けれど、スタッフの表情は、かなり困惑しているようで余程酷いことになっているのが伝わる。

 僕はスタッフに促されるまま、急ぎ足で楽屋に戻った。丁度楽屋には、メイク担当のスタッフが片付けをしており、帰ってきた僕を迎えた。そして、僕の顔を見た途端、驚いたように息を呑む。


「なっ、何したんですか、一体」

 少しばかり青ざめたスタッフに、どれだけメイクが崩れているのかと鏡へと視線を向けた。


 僕の目が大きく見開き、体中にぎゅうっと力が入る。


 鏡に映る僕の両目から、まるで涙が頬を流れたかのような、黒く濁った軌跡があった。



                                                                                                                                                                                                                               

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