第8話 心を磨り減らす金
必死に顔と手を洗い、楽屋へと戻る。
原因のわからない黒い汚れだったが、もしかしたら机や壁などに使われた塗料が溶けていたのかもしれない。
可能性として、最後に握手した飛鳥ならば何か出来たかもしれないけれど、こんな意味不明なイタズラするとは思えない。
薄気味が悪いけれど、実害はない。これ以上追求したところで何にもならない。
ただ手が汚れただけなのだからと、頭に言い聞かせつつ、楽屋の扉を開けた。
そして、すぐに後悔する。
扉の動きによって生まれた風のせいで、ぶわりと鼻を襲う酒気と煙。
「おせぇじゃねぇか」
ああ、戻ってこなければ良かった。
そこには、酒の缶を握ったリーダーが不機嫌そうに煙草を吸っていた。
他のメンバーの服やカバンは楽屋から消えていたので、既にどこかの誰かの家に帰ったのだろう。
「少し、トイレ行ってて」
僕は出来るだけリーダーの機嫌を損ねないよう、距離をとりながら、かなり慎重に自分の荷物へと向かう。衣装はトイレで着替えて次の機会に返せばいい、部屋から出ることを優先しよう。
しかし、そうは上手くはいかない。後一歩で鞄に手が届くぐらいの距離まで来た時、ガンッと頭に走る激痛と、揺れる視界。
固いものが頭に飛んできて、その中に入っていた冷たい液体が髪や頬、肩などを濡らす。
僕は反射的に痛む頭を腕で押さえた。
身体を包み込む、独特なアルコール臭とレモンの香りが鼻をつんざき、思わずウッと息が詰まる。
ガランガランと足元に転がるアルミ缶は、次の瞬間にはリーダーの足によって、ガシャリと踏み潰された。そして、僕を覆うような大きな影が現れる。
「おい、反省会するぞぉ」
低く唸る声に、僕は恐怖で震える身体を抱きしめながら、声の主を見上げる。
目の前には、真っ赤な顔ですっかり酔いが回ったリーダーが僕を見下ろしていた。
襟首を強く掴まれ、ぐっと上に持ち上げられる。首はぎゅっと締まり、足はつま先しか地面についていない。
「お前さあ、なぁに、つまんねえ返ししてんだよ」
リーダーの目は赤く充血し、完全に酒に呑まれている。ぐらぐらと胸ぐらを揺さぶられ、つま先はバランスを保とうと足掻く。
「ちょっとくらい、話せるだろうがよお。警察なんて、会場のどこにもいねえしさ」
唾を飛ばしながら怒鳴り続ける彼に、僕はただ耐えるしかない。
「あそこは、ここだけの話だろうが。それを楽しみに今日の客は来てんだよ」
昔はここまで酒癖は悪くなかった。いや、理性を保てるほどしか飲んでいなかった。と言うのが正しいのかもしれない。
「いつもいつも、マジメ腐って。お高く止まってよぉ。そんな余裕、俺たちにあると思ってんのか?」
「で、でも」
警察が、と言いかけたところで、身体をそのまま近くの壁へと投げつけられた。背中は壁に大きくぶつかり、一瞬視界が白く飛び、激しい痛みが走る。もう余りの衝撃に僕は必死に身を守るため、亀が甲羅に籠もるように小さく丸まった。
しかし、そんなことで止まるような人ではない。
「口答えする権利あると思ってんのか?」
彼の靴先で、無防備になっていた横腹を小突かれる。軽くとはいえ、のめり込む靴先に恐怖し、僕は唇を固く結んだ。
少し前までただの学生だった僕は、法律的に成人したとはいえ、歌うこと以外は本当に役立たずだ。今、アイドルとして活動できているのは、グループに誘ってくれた一番年上のリーダーのおかげである。彼には地域密着型アイドルをしていたため、経験で培ったという横の繋がりや知識があった。おかげで、僕たちの活動は最初だけ順調に始められた。
「もうデビューして、どれぐらい経った。最初は番組バフもあったのに、今、どうだ?」
上から吐きかけられたリーダーの言葉は、深く僕の心に刺さる。
「こんなにも惨めになるなんて、な」
結構な視聴力を誇った番組に出演すれば、どんなに放送に映っていなくても、それなりに顔は知れ渡る。
特にメンバー唯一の最終評価まで進んだ僕は、番組を見ていない人でも知っているくらいだった。
そんな僕たちのデビューライブは、三百枚ほどのチケットが即完売するほど。
最初はかなり注目されていたはずなのに、まるで転がり落ちるように客足が遠のいてしまっている。
曲が悪い、衣装がダサい、劇場が汚い、 メンバーがつまらない。
SNSには酷い言葉がちらほらと増え、どれに対しても反論できない自分たち。
だって、たしかにそうだから。
しかし、どれも良いモノにするには、どうしても金がかかる。
では、この金をどこから出すのか。
わずかな売り上げから絞り出すしかない。
そうすると、僕たちはジリ貧一直線だ。
金がなくなれば、焦りだけが増して、最後には荒んでいく。
リーダーは資金集めと、知名度を上げるために、ゲーム配信を始めた。際どい配信のがウケるらしく、視聴者の投げ銭によって発言がどんどんと過激化、最近は儲かるからと泥酔配信ばかりだ。
他のメンバーは、生活が苦しいからと、ファンにあからさまに貢がせ始めた。何人ものファンの家を渡り歩き、そのせいで女性たちは歪みはじめ、この前なんて会場の外で殴り合いの喧嘩が起きた。警察に通報されて、会場にも迷惑をかけた。
まともなファンたちは、あまりの治安の悪さに次々と離れていく。
今の状況が良くないのはわかっている。けれど、僕が意見したところで二人は聞く耳を持つはずがない。今ではもう、意見主張するのも疲れてしまった。
僕は、どうにか節約と、コネで紹介されたバイトで食い繋いでいる。
目を逸らしていた惨めさを、あからさまに突きつけられる。それに浸る時間もなく、後頭部の髪を掴まれて頭を持ち上げられた。
無理やり顔を向けさせられた目と鼻の先、目が据わるリーダーの顔があった。
「俺たち、もう、なりふりかまってられねぇんだ」
静かに、淡々と、聞き分けの悪い僕を諭すように話す。
「少しでも売れるためなら、俺は、お前のファンの死も利用してやるよ」
急に髪を引っ張り上げる力が抜けて、僕の頭はガクンと落ちた。その頭の重みに負けて、上半身も床へと沈む。
「帰って、配信するわ。片付けておけよ」
リーダーは足音を鳴らしながら、楽屋を出ていく。僕はゆっくりと上体を起こし、楽屋を見渡した。酒の缶やおつまみの袋だけではなく、ペットボトルなども散乱している。
ああ、綺麗にしないと、清掃費をとられてしまうかもしれない。
こんな時もお金の心配だなんて。考えれば考えるほど、惨めさが増していく。痛む体を庇いながら起き上がり、置かれた掃除用具箱へと足を進めた。
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