第13話 ミヒャエルと投資事業①
家庭教師のマイヤ夫人からは、護身術も教わっている。
「ドリスお嬢様、もっと本気で殴ってくれていいですよ?」
オスカーの笑いを含んだ声にムッとして腰を入れ直し、みぞおちめがけて拳を叩きつけてみたけれど、硬い筋肉に覆われた体はビクともしない。
むしろわたしの手のほうがどうにかなりそうだ。
「もうっ!」
ムキになって両手でポカポカ殴り続けるわたしを見下ろして、オスカーが「あははっ」と大きな声で笑う。
最近、オスカーはよく笑うようになった。
オスカーの笑い声が庭に響き渡ったところで、ミヒャエルも庭に出てくるのが護身術のレッスンのお約束パターンとなっている。
わたしの楽し気な声が聞こえると、居ても立ってもいられなくなるのだろう。
執務を猛烈な勢いで終わらせてしまうミヒャエルだ。
「楽しそうだね」
「オスカーのお腹が硬すぎるの」
笑いながらやって来たミヒャエルを振り返ると、ブンブン揺れる尻尾とぴょこぴょこ動く三角の耳が見える。
構ってほしいということだろう。
しかしミヒャエルの体もまた鋼の筋肉に覆われているわけで、拳でポカポカ叩いても何のダメージも与えられないことはわかっている。
だったら……。
奇襲のコチョコチョ攻撃よっ!
懐に飛び込むようにミヒャエルに駆け寄ると、服の上からわき腹をくすぐった。
「うわっ! ドリス……ちょっ、あははっ!……降参、降参だ」
まさかの攻撃にミヒャエルが身をよじりながらあっさり白旗を上げる。
「どうだ!」
ふんすと胸を張るわたしをミヒャエルがぎゅうっと抱きしめた。
「ドリス、くすぐり攻撃は反則だ」
「いいえ、いざ暴漢に襲われた時には反則も何もございませんわ」
傍らで見守っていたマイヤ夫人の声が響く。
「そうですね」
ミヒャエルがわたしの背中に回していた腕を解き、マイヤ夫人の方へと向き直る。
「ドリスお嬢様、先程の不意打ちはなかなか良いアイデアでした。しかしああいった虚をつく攻撃は、一度しか通用しないことを肝に銘じることです。それに……」
真面目に講評を述べるマイヤ夫人がここで言葉を切り、わたしに向かってにっこり笑う。
「相手が隙を見せた後、ふんぞり返っての得意顔はいただけませんね。そういう時は、どうすればいいのでしたっけ」
「全力で逃げる!」
「正解です」
その言葉が合図となってわたしが「きゃーっ!」と叫びながら駆けだすと、それをミヒャエルとオスカーが追いかけてくる。
オスカーが本気で追いかけてきたら、わたしなどすぐに捕まってしまう。しかしこれは、手加減しまくりのお遊びだ。
もはや護身術ではなくただの鬼ごっこであり、それがかくれんぼに発展するのもお決まりパターンで、わたしたち三人がどろんこになったところで
「本日はここまでにしましょう」
というマイヤ夫人の少々呆れた声で終了するのもまた、護身術のレッスンのお約束だった。
もはや護身術とは名ばかりだ。
このレッスンを数回経験してようやく気付いたことだけれど、これはわたしの体力づくりとストレス発散のためにマイヤ夫人がそういう場を設けてくれているのではないか。
それにミヒャエルとオスカーも協力してくれているのだろう。
ドリスは、とても愛されている。
マイヤ夫人を即刻クビにしたであろう悪役令嬢ドリスは、こんな楽しいことを体験していたのだろうか。それとも嘘に嘘を重ね、どうすれば大人を意のままに操れるだろうかという悪だくみばかりを考えていたんだろうか。
身に余る愛情を受け、贅沢をさせてもらい、それでもまだ足りないと己の欲望を増幅させて飲み込まれてしまったのだとしたらとても悲しい。
今のわたしには曲りなりも前世で20年生きた記憶と経験がある。もしもそのことを思い出さなければ、悪役令嬢ドリスと同じ運命を辿ることになっていただろう。
良識あるはずの大人たちでさえ、現状に満足できず私利私欲に駆られてしまうのが人間だ。
それはわたしが前世で暮らしていた世界だけでなく、この世界でも同様だ。それだけではない。
ここはゲームの世界であり、各キャラクターは個性が際立つように悪役はより悪役らしく、英雄はより英雄らしく極端に振り切れた設定になっていることも関係しているのだろう。
悪役令嬢ドリスの鬼畜なまでの悪役設定だってそうだ。
多少強引なことをしたり、突拍子もない発言をしたって「ドリスだから」で許されるシステムなのかもしれない。
ということは、それを逆手に取ってそろそろ鉱山投資に口出ししてみようか。
ゲームの中で鉱山の話はチラリとした出てこないが、そこはハルアカを3周した経験を持つわたしだ。この後、宝の山となる鉱山の名前をいくつか覚えている。
この世界がシナリオ通りに進行しているのなら、きっと今回も宝の山になってくれるだろう。
エーレンベルク伯爵家が破産しなければドリスの破滅フラグも回避しやすくなるはずだ。
「ねえ、ハンナ」
ミヒャエルとオスカーとの鬼ごっこで泥んこになったわたしの髪を丁寧に洗ってくれているメイドのハンナに話しかける。
「何でしょう」
「わたし今、とっても幸せよ。ずっとみんなと一緒にいたいわ」
櫛を持つハンナの手が止まった。
「最近、旦那様もオスカー様もよく笑われるようになって、お屋敷がとても明るくなりました。私たち使用人一同も大変幸せな気持ちでおります」
優しく髪を梳かれているうちに、心地よい眠気に誘われて目を閉じる。
さらなる高みを目指して野望を抱くのも大事なことではあるけれど、今こうして与えられている身の丈に合った幸せに感謝することを忘れないようにしよう。
そう思ったのだった。
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