夏休みの一仕事Ⅴ
「悪いけど、今日はそこに行く予定はないわよ」
「えー!?」
芽衣の発言に久陽――――ではなく朱理が抗議の声を挙げる。
久陽としては高揚感こそあったものの、朱理に元々告げていたように海に行く気持ちはなかった。ただ、バッグの中には誘われてもいいように最低限の用意だけはして来てある。
「この後、ここを用意してくださったあなたのご両親にも挨拶したり――――どうせ、この辺りの地理を忘れている誰かさんを軽く案内したりしなきゃいけないでしょ?」
「悪かったな。覚えるのが苦手で」
「別に。いちいち私が案内しなきゃいけない手間を省きたいだけよ。一度、やっておけば文句も言われずに済むからね。それに、ここに来た目的を忘れたわけじゃないでしょ?」
ジト目で睨んでくる芽衣から久陽は目を逸らす。芽衣の言う通り、ここに来た目的は遊びでも観光でもないのだ。
芽衣はスタスタともう一つの襖の方へと向かって行く。そこを勢いよく両手で開け放つと、腰に手を当てて振り返った。
その背後に広がっている光景は大きめのテーブルと椅子が二脚。そして、そのテーブルの上に広げられたのは筆記用具とノート、そして問題集や参考書といった類の物であった。
「私の
大学受験。高校三年生の彼女は一月の大学入試共通テストの為に、マンツーマンの家庭教師として久陽を指名した。
理由は幾つか挙げられる。まず第一に目指している大学が久陽と同じだったこと。自分が目指している大学に入学した人に教われば、少なくともある程度までは教えてもらうことができる。
第二に久陽が県内でも有数の進学高校出身だったこと。文武両道は芽衣自身も実践していて、自信はあるが、勉強も運動も久陽に勝てたことが一度もない。
それは本来嫉妬という感情で、むしろ久陽を遠ざけることになるはずなのだが、その点においては彼女は冷静であり、謙虚だったのかもしれない。
「それはわかってるけどな。一応、教えてもらう人間にその態度はないだろう」
「そうね。だから、今日から一週間、よろしくお願いします」
「……お、おう。こちらこそ、よろしく」
そこには久陽の知らない芽衣がいた。いや、或いは忘れていたと言った方が良いかもしれない。昔は、今の朱理のように久陽へ懐いていた時もある。
だからこそ、久陽の中に突如湧き上がってきたのは困惑の二文字だ。
「……どうかしたの?」
「いや、本当に態度を改めるとは思ってなかったから」
「あっきれた。私のことどう思ってるの? 私、人の優れたところは素直に褒めるし、称賛するタイプよ」
明らかに不機嫌になる芽衣に反応して、すぐ膝のあたりで待機していたムクもフウタほどではないが、久陽に非難の眼差しを向ける。
事実がどうであるかはわからないが、現時点で間違ったことは言っていないので、素直に平謝りしながら久陽は置き去りにした荷物を拾い上げる。
「悪かったよ。少なくとも、お前にやる気があるのはわかったから、俺も全力を尽くす。それでいいだろ?」
「もちろん。むしろ手を抜いたらムクを
「お姉ちゃん。流石にそれは冗談じゃ済まないと思うよ。久陽さんだし」
朱理が心配そうに声をかける。それに対してフウタが大きく頷いていたのは、気のせいではないだろう。
ただ朱理が言っていることは概ね間違っていないため、久陽は反論できない。その件に関しては、半分諦めているところもある。
「そうね。久陽だものね」
芽衣もまたそれに同意する。その目は先ほどと違い、久陽を挑発するような攻撃的な色が宿っていた。
「この家系に生まれながら、成人してもまだ
グサリと芽衣の言葉が久陽の胸を貫いた。
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