夏休みの一仕事Ⅳ

 おでこの両脇あたりを抑えて、その場に蹲る朱理。あまりの大きな音にエントランスにいた客の何人かが驚いて振り向くほどだ。その痛みは推して知るべし。

 心配して久陽が駆け寄るが手を伸ばしたその先に、フウタが割って入る。牙を見せて完全に威嚇体勢だ。


「いや、俺は悪くないだろ」

「あら、相変わらずその子とは仲が悪いみたいね」


 いつの間にか目の前にまで近づいてきていた芽衣が、朱理の頭を撫でながら久陽に声をかける。どこか棘のある突き放した声は、久陽へと向けられていた。

 むっとする久陽の顔を見て、芽衣は少しばかり誇らし気にしていた表情を隠す。一度、咳払いして、何事もなかったかのように挨拶を交わした。


「久しぶりね。元気そうで何より」

「あぁ、そっちこそ元気そうだが、生意気さも相変わらずで喜んでいいのか悩んでいたところだ」

「そう? 私としてはこれでも丸くなったつもりだけど」


 皮肉たっぷりに言ったつもりだったが、芽衣の方はどこ吹く風。少しばかり熱くなる久陽に対して、エントランスの冷房並みに涼し気だ。


「とりあえず、こんなところで立ち話してたら出て行くお客さんの迷惑よね。一先ず、私の部屋に来る?」

「今日から俺の部屋でもあるんだよ。地味に領有権主張するんじゃない。」


 久陽は今日から一週間ほど、芽衣と同室で生活をすることになっている。二歳年下とはいえ、相手は女子高生だ。何故、部屋を分けなかったのか。芽衣や朱理のご両親に問い詰めたいところだ。

 尤も、実家でそれをボヤいた所、母親からは「そんな度胸ないだろう」の一言で済まされている。もし、本当にそう思われているのだとしたら悲しい限りだ。


「はいはい。何かあったら立場が悪くなるのはそっちなんだし、黙ってついて来る。おいで、ムク」


 朱理が回復したのを見計らって、芽衣は踵を返してエレベーターの方へとどんどん進んで行く。そんな彼女の足元には茶色の柴犬が付き従っていた。

 置いて行かれてはたまったものではない。急いで朱理と共に芽衣の後を追う。先にエレベーターの中に入って開くボタンを押し続けていた芽衣は、二人が入るのを確認すると直ぐに扉を閉じた。


「部屋の番号は三〇三号室。ここを出て右の突き当りの部屋よ」

「オッケー。人の顔や道を覚えるのは苦手な俺も、流石に覚えられる」

「ほんっと、大丈夫かしら。頼んだのは私だけど、少し心配になって来たわ」


 扉が開ききったのを見計らって、エレベーターから降りるが、芽衣は頭痛がすると言わんばかりにこめかみを抑える。


「悪いけど、ここまで来ちまったんだ。今更無しは受け付けないぞ」

「わかってるわよ。私もそこまで人でなしじゃないわ。ほら、中にどうぞ」


 部屋の番号が書かれた直方体の透明なキーホルダーが付いた鍵で解錠すると、芽衣は引き戸を開けて久陽を中へと通す。軽く礼を言って、靴を脱ぎ、襖を開ける。

 するとそこには十畳ほどの和室が広がっていた。


「おいおい、いいのかよこんなにいい部屋使って。」

「久陽さん。驚くのは早いですよ? ほら!」


 朱理が奥まで駆けて行って窓のカーテンを開ける。どうやら、この部屋は室内ベランダの間取りになっているらしかったが、飛び込んで来た光景に久陽は思わず荷物をその場に落として、窓へと近づく。


「どうですか? この素晴らしい景色は。ここからなら、海を一望できてしまうのです。去年使って部屋よりも、少しだけ見晴らしがいいでしょう?」

「いや、去年も十分凄かったけど、角度がちょっと違うだけで、こうまで変わるもんなんだな。」


 耳をすませば、車の音に混じって波の音が聞こえてくる気がする。見下ろせば整備されたデッキや停泊している船舶が見え、少しばかり北東に視線を向ければ白い砂浜が目に飛び込んで来た。夏にこの景色を見れば、すぐにでもそこへ行ってみたくなる衝動に駆られるだろう。

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