夏休みの一仕事Ⅲ
その後も両親の様子や朱理自身の近況を話しながら、国道に出てしばらく沿って歩いていく。
すると、右手には様々なホテルや旅館が立ち並び、ここが観光地として有名であることを嫌でも感じさせられる。交差点で信号待ちの人々を見れば、どこかにちょっと買い物に来たという風には見えないおしゃれな格好の人も多い。
逆に左手に目を向ければ整備された歩道越しにチラチラと青く輝く海が見えて来ていた。気温が高いこともあり、海で遊ぶ人たちの声が、通り過ぎる車の間を縫って届いて来る。
視線を戻して進んでいくと、電柱に貼られていたポスターが目に留まる。どうやら、轢き逃げ事故の情報提供の呼びかけらしく、犬の散歩中に轢かれてお亡くなりになったらしい。
あまりの痛ましい内容に眉をしかめていると朱理から声がかかった。
「久陽さんも泳ぎたい?」
「いーや。プールで散々泳いだし、海でも泳ぐのは勘弁だ。それに海水が入るとしょっぱいし、何が潜んでいるかわかったもんじゃない」
久陽も朱理同様、大学では水泳部に所属している。小学校から続けて来たが、大学に入ってからは記録はスランプ気味。わざわざ休みの日まで泳ぎたいと思う程の熱意は、いつの間にかどこかに行ってしまった。
しかし、適当な理由をでっちあげているようだが、海という場所で泳ぎたくないというのは本音でもある。プールと違って海はいつ牙を剥くかわからない。離岸流でいつの間にか沖に流されたり、鮫や海月に襲われたりする可能性もある。何より恐ろしいのは――――。
「あ、着きましたよ」
「おぉ、そういえばこんなところだったな」
下らないことを話している内に目的の旅館へと到着した。
旅館の名前は潮騒の湯。ぱっと見は十階建て近いビルのように見えなくもないが、近づくとベランダの上部に神社のような屋根が見えたり、祭りなどで見かける細長い提灯がぶら下げられていたりと和風な雰囲気も感じられる。
立地も良く、海からは徒歩一分と掛からず、景色は最高。夏に行われる花火大会も部屋から見れるというのに、一人一泊で諭吉を使わずに済むという親切料金。部屋の数は五十室近くあり、露天風呂は当然のことながら、魚の泳ぐ水槽を見ながら入浴できる珍しいタイプの風呂も用意されている。
そして、驚くべきことにこの旅館はペット同伴可であった。
「相変わらず凄い旅館だよな。でも、こんな繁忙期の一室を借りちゃっていいのか?」
「大丈夫ですよ。宿泊費も食費も全部タダですから。」
「タダより怖い物はないというだろ……」
幸か不幸か。久陽の今回の滞在費はほぼ無料であった。いくら親戚だからと言っても、その好待遇は明らかにおかしい。
しかし、経営者である朱理の父母が久陽を騙すメリットはない。即ち、これは善意百パーセントのプレゼントのようなものである。
もちろん、タダでこんな好条件を提示してくれるわけではない。この待遇を手に入れるためには、一つだけ久陽がやらなければいけないことがあった。
「あ、
自動ドアに近づくと朱理が嬉しそうに声を挙げる。
その視線の先には、ガラスのドア越しに黒いショートカットの女性が立っていた。黒のミニスカートと白いTシャツが館内の入り口にある扇風機に煽られはためくが、対照的に女性の体は一切微動だにせず久陽を見つめていた。
「うっ……」
久陽はそのまっすぐな視線を受けて、歩調が乱れる。彼女の端正な顔立ちは去年よりも更に増して美人という枠組みの上位に移動しているのは明らかだ。
しかし、その瞳は久陽にとって絶対零度の眼差し以外の何物でもなかった。
端的に言えば、彼女――――
そんな久陽の心中など知るはずもなく、朱理は久陽と反比例するかのように歩調を早める。それに先んじて、犬のフウタが一気に加速した。
「あ、フウタ!」
「――――あっ!?」
それに気付いた朱理がさらに加速を始めるが、それを見て久陽と芽衣の表情がシンクロする。その口元から察するに恐らく発した言葉も一致していただろう。
自動ドアが開ききる前にフウタの体はガラスのドアを
「あだっ!?」
激突という名の鈍い音だった。
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