第8話 少女の名はかや

「なんかおかしなことばっかり言うけど、悪い人じゃないみたいだねぇ」

 辰流の胴にしがみついたまま少女が、道下に対する印象を述べる。

「ああ、生真面目なだけだ」

「で、ぱぱぁ」

「頼むから、それ以外の呼び名にしてくれ」

 少女を胴から引き離して見下ろす。少女は辰流の顔を窺いながら、

「ダディ、ご主人様……うんと……タッチャン」

 案をいくつも並べている。道下との会話から、辰流の名前がわかれば、こうした呼び名も思いつくだろう。

「タッチャンで頼む」

 他の選択肢は、「ぱぱ」同様に問題を発生させるだろう。

「了解ぃ」

 少女は元気いっぱいに笑顔になる。警官がする敬礼ポーズは知ってやったのか、知らずにやったのか、辰流にダメージを追加させるには十分だった。

「君はあの時、木の枝にいた子でいいんだよな。なんでここに? いや、その前に君の名前は?」

 廊下でまた別の誰かに会うのは避けなければならない。

「わたしはかや。もちろんタッチャンに会いに来たんだよぉ」

 ほとばしる云々はきっとどっかで覚えた目新しい言葉を使ってみたかったのだろう。

 少女は屈託のない微笑を浮かべる。小学生の取り留めのない言い方に、釈然としないとは言ってはいられないため、辰流は質問を変えた。

「どうしてここまで来られたんだ?」

「匂いだよぉ」

「匂い?」

「そうぅ。かやたちはね、どこにでもいるし、どこにでも行けるぅ。かやたちからは人が見えるけど、人からはかやたちを見る人はなかなかいないぃ。

かやは風に吹かれるままだよぉ。タッチャンに会いたくて、いっぱい風の力を吸って、その力使ってまたタッチャンに会いに来たんだぁ。ちゃんとかやだってわかってもらえるようにぃ」

 取り留めのないというよりも、詩編を聞かされているような話だった。が、それを空想の一言でしまいにできるとは、もはや辰流は思えなかった。彼の左手には、包帯と化した一反木綿が巻かれているのだ。

 その時である。女古優麻からメールが来た。

「新刊が入ったみたいで、ちょっと気になるから時間がかかると思う。だから、今日は部活はなしでもいいわよ」

 了解の旨の簡潔な返信を送った。それは辰流にとって幸いなことでもあった。見知らぬ少女が部室に来ている、というより端から見れば、辰流が連れ込んだことになってしまっている。校内でも離れ小島に位置する図工部部室周辺では、人通りを極端に近づけていないのが幸運で、この事情を知っているのは、旧友の道下高大くらいである。部活を続け、帰宅時間が遅くなった場合、校内の人目はかなり減るだろうが、見つかった場合の視線の厳しさは尋常でなくなる。さらには校外で道下が言う治安維持機関の方々が巡回していたら確実に事情を聞かれるだろう。ならば、少女を追い返すか、ともに学校を抜けるしかない。

 前者であれば、少女一人がまっすぐに玄関から出て行くと間違いなく断定できるわけもなく、校内をあてどもなく彷徨った挙句、教員たちが知るところとなり、事情を説明した少女がたどたどしくも、「タッチャンに会いに来た」と言うはまだましな方で、ヘタをしたら、「ぱぱ」の一言を口を滑らさないとも限らない。

 となれば、同行して人に会って尋ねられたら、道下に話したような言い訳をすれば、それなりの逃避ルートの形成にはなる。それくらいに校内で女古優麻を知らない者はいなかった。

 だから、辰流はかやとともに部室を出ることにした。

 ただ、このかやという子の自宅を聞き出し、送り届けなければならないという懸案が残されてはいた。

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