第5話 会いたくなかった
それからというもの、北村からの連絡が来たかと思えば例の女性に関する内容ばかりだった。明日彼女とお茶するんだ。彼女が好きなスポットに案内しようと思う。この間の彼女の笑顔があんまり可愛くて、写真を撮ったけど最高だったよ。
ぜひ、きみにも見せたい。
まるで初めて恋をした高校男児のように、北村のLINEの文面からは彩りが感じられた。反対に、私の腹の底は黒く塗り潰されていく。その度に、私はクソ、と舌を鳴らした。それが仕事中だったこともあり、先輩から「情緒不安定かよ」と変な目で見られた。悪気のない北村の連絡が、私には悪魔のささやきに聞こえる。彼が紡いだ文章に、いちいち気を持っていかれた。ノートパソコンや手帳、デスクの上に溢れかえった書類たちの存在が、視界に入らなくなるほどに。
「天野さん、貧乏ゆすりなんかして、どうしたんですか?」
声をかけてきたのは今年の新入社員の女の子だ。彼女は筋金入りの「天然キャラ」で、どれだけ人が怒っていようと、悲しんでいようと、毎回同じテンションで言いたいことを直球で口にしてくる。そうでもなければ、明らかに気が立っている先輩に無防備に話しかけてきたりはしない。
「べつに、何も。ちょっと疲れてるみたい」
「疲れで足が震えるって、ちょっとやばいんじゃないですか? 病院行ったほうがいいですよ」
やばい、という抽象的な言葉を仕事中に当たり前のように使える彼女に、私は嫉妬さえ覚えそうだった。しかも、病院って。私だったらイラついている上司にそんなことは言えない。
「そうだね。考えてみるよ」
「そうしてください。健康が一番ですから!」
きっとこの子は、この先どんなに仕事や恋愛で壁にぶつかっても、ひょいとかわして上手く生きていくのだろうな。そういう人の瞳は、全然汚れていない。これまで多くの人間と関わってきたからこそ、分かるのだ。私はデスクの上に常備していたコーヒーをごくりと飲み干した。やっぱり、この苦味がたまらない。あれから砂糖もミルクも、一切入れていない。
北村が夢中になっている女性に会ってほしいと言われたのは、彼が女性のことをほのめかしてから半年が経った頃だ。すっかり秋の気配が近いた十月。まだ暑い日もあるけれど、ふと全身に吹き付ける風に、金木犀の香りが漂う。よく晴れた日曜日の午後だった。北村にしては珍しく、居酒屋で飲もうという話になった。彼女がサービス業で、土日は夕方まで働いているから、と。私はお酒が好きなので、まったく問題はなかった。
「久しぶりだね」
「……お久しぶりです」
北村が指定したお店は、繁華街に佇む小さな創作料理屋だった。お客さんのほとんどが常連客なんだろう。店員と仲良く話している。内装は木材と緑を基調としており、居酒屋とは思えないほどおしゃれだ。彼が選ぶ店はなかなかセンスがいい。
「初めまして、私、
「初めまして。天野夕です。今日はよろしくお願いします」
早坂は、艶やかな茶髪と大きな瞳が印象的な美人だった。他のお客さんが、チラチラとこちらを振り返る。煌びやかなオーラを放つ彼女の気配にしばらく圧倒されて、私は何を話したらいいのか分からなかった。
「天野さん、緊張してますか?」
早坂がクスクスと口元に手を当てて笑う。右耳に髪の毛をかける。「大丈夫ですよ」と目を綻ばせる。その仕草のすべてが、私の自尊心を完膚なきまで破壊した。
「ははは、そりゃびっくりするよね。彼女、職場でも相当人気者で困るぐらいらしいから。お客さんにも人気だって。営業成績もいいんだよね」
「そんな、大したことじゃないですよ」
「お仕事は何をされているんですか?」
「アパレル店員です。駅前の『Daisy』っていうお店で働いています。今日も仕事終わりで」
「ああ、なるほど」
確かに、早坂みたいな店員がいれば、誰だって話したくなるものだろう。職場で人気だというのも分かる。早坂の周りだけが、パッと明るく輝いて見えるから。
私は、運ばれてきたビールをごくごくと喉に流し込んだ。「お、豪快だね」という北村の言葉は半分聞こえないフリをして。
早坂はお酒に強いのか、その後三人で談笑しながら飲んでいても顔色一つ変わらなかった。その代わりに、北村と私はどんどん酔っ払い口調になっていく。特に北村はいつになく陽気に笑ったり、私と早坂にお酌したりしていた。
「莉乃ちゃんはしっかりしているね。僕はもうこんなにヘロヘロなのに」
「北村さん、酒は飲んでも飲まれるな、ですよ」
「はは、そんなこと僕にはむりだ〜」
顔を真っ赤にした北村さんは、写真家として写真への愛を語る凛々しい彼とはかけ離れていた。北村も、好きな女性を前にするとこんなに無防備になるのか。グラグラと回転する頭でまだそんなことを思ってしまう。早坂と出会ってからまだ二時間ほどしか経っていないのに、この敗北感は一体何なんだろう。
「北村さんは、早坂さんのことが相当気に入っているみたいですね。うらやましいです」
「ええ? 何言ってるんですか。まあ確かに、声をかけてもらった時には驚きましたけど!」
「だってさ、たまたま訪れた店先にこんな美人が立ってたら、誰だって声かけたくなりますよ」
「またまたあ〜」
二人の関係を破壊しようと何とか探りを入れてみようと試みたものの、結局は二人が自分たちの世界に入り込むのを止められなかった。北村だけでなく、早坂も北村のことを強く意識している。彼女のキラキラとした瞳が物語っていた。たぶん、私が何もしなければ——いや、何をしていたとしても、近々二人は結ばれるだろう。
「今日はこの辺で失礼しますね」
いい加減に酔いが回っていたし、なによりこの場にこれ以上長居したくなかった。北村は「もう帰っちゃうの?」と言うが、その目は嬉しそうにも見える。そうでしょう。二人きりになりたかったんでしょう。だからあとは二人で楽しんで。早坂が「おやすみなさい」と無邪気に手を振った。私も「今日は楽しかったよ」と控えめに手を振り返す。本当は会いたくなかったよ、という言葉が腹の底で弾けた。
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