第2話 写真家の彼

「ありがとうございます。僕は北村健一といいます」


天野夕あまのゆうです。よろしくお願いします」 


聞けば彼は私よりも5つ年上とのことだったが、腰の低い彼の態度にとても好感がもてた。

普段はどんな仕事をしているのだろう。誰と、どんな会話をするんだろう。一人でこんなツアーに参加するなんて、恋人はいないのだろうか。 彼に対する興味が、私の気持ちを前へと動かした。


 北村と熱海の繁華街や海辺を歩き、話をしているだけで、すぐに日が暮れた。丁寧で物腰柔らかな彼の物言いに、私はすっかり心を奪われてしまっていた。あたりがすっかり暗くなった頃、私たちは宿へと向かった。夕食はツアー客が泊まる旅館での懐石料理だ。海の幸がふんだんに使われた和食を食べながら、北村とこの旅に参加した理由を話していた。


「僕は、ちょっと仕事でつまずいてしまって」


「お仕事は何をされているんですか?」


「これだよ」


彼は首から下げていた一眼レフカメラを持ち上げて答えた。そういえば、散策中にも時折かばんからカメラを取り出しては写真を撮っていた。熱心な趣味だと思っていたが、これが仕事だったのか。


「カメラマンですか」


「そうだね。まあ僕の場合はカメラマンというよりは写真家に近いかもしれないけれど」


「それって、カメラマンとは違うんですか?」


「いや、広義の意味では同じだけどね。写真で食ってる人はみんなカメラマン。でもその中でも、より芸術性を追求した写真を撮る人を、写真家というんだ」


「へえ。じゃあ、北村さんには『魅せたいもの』があるんですね」


「おお、いい表現だな。そうそう。僕は自分の作品に、色をつけたいんだ」


写真の話をしている北村の声は弾んでいて、心から写真を愛しているのだということが伝わってきた。彼は先ほどから手に持ったお箸で何かを掴むわけでもなく、私の質問に真剣に答えてくれた。


「天野さんはどうしてここに?」


次は私が話す番だということは分かっていた。しかし、理由が理由だけに彼にどう思われるのか想像すると、背中に汗が滲む。


「……お恥ずかしい話ですが、つい最近失恋をしてしまって」


取り繕っても仕方がない。旅仲間との会話に見栄は必要ないのだ。


「なるほど、傷心旅行というわけだね」


「はい。いい歳した大人が何言ってんだって話ですけど」


「いやいや。僕だって同じようなものだよ。上手くいかないことがあれば、ちょっとそこから逃げたっていいんですよ」


彼が言う「ちょっとそこから逃げたって」という表現が、妙に耳に心地良かった。私は大学を卒業して以来印刷会社の管理部で仕事をしているけれど、社会人になってからというもの、「ちょっと逃げたい」と思うことが増えた。明日の納期から、複雑な人間関係から、上司との付き合いから、いい加減な人事評価から。

完全に振り切れることなんてないのだから、少しくらい距離をおいてみたい。北村もきっと、情熱を傾ける写真の仕事をする中でちょっとだけ疲れてしまったのだろう。そう思うと、自分とは違って身なりも振る舞いも格好良い北村が、とても近い存在に思えた。

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