第31話
部屋の照明が消えた室内に、ベランダから青白い光が差し込んでくる。
それが月の光なのか、アパートの近くにある電灯の光なのかは分からない。だが、薄暗い光は不思議などくっきりと、薄闇の中に彼女のお気に入りの青いスカートを浮かび上がらせていた。
スカートから覗く畳を踏む日に焼けていない、細い二本の子供の足。闇に溶けるように時折揺らぐ影は幼い子供の背丈だ。記憶の中の俺はいつもりんちゃんを見上げていたというのに、気が付けば当の昔に彼女の背など追い越していたのだ。
それも当たり前ことだ。彼女は幼い姿のままこの部屋で時を止め、俺はこの家を出て今日十九歳になったのだ。
「……りんちゃん」
震える俺の声に応えるように、僅かに闇が揺れる。
不思議なことに窓から差し込む光は彼女の足とスカートは映し出しているのに、顔はまるで墨で塗りつぶしたように影で覆われたままだ。
俺はゆっくりと黒い影に近寄ると、彼女の前でゆっくりと膝を折る。まだ姿は見えないが、それでも彼女の背丈に合わせられるように。当時の俺と同じ程の身長になるよう、俺は静かに畳に膝をついた。
(りんちゃんを、自由にしてあげないと)
彼女がこの部屋に留まり続けたのは、俺とのかくれんぼがまだ続いたままだったからだ。だが俺は彼女を見つけた。如月の力を借りることになったとはいえ、こうして彼女を見つけ出してあげることができた。
だが、このかくれんぼは鬼が相手を見つけるだけでは終わらない。勝った者が、相手にお願いを聞いてもらわなければいけないのだ。
俺は先ほど見つけた、古ぼけた手紙を握りしめる。
あの時、もしかくれんぼが続いていたら、きっと勝っていたのは俺ではなくりんちゃんだった。だが、どの道どちらが勝っても負けても、俺もりんちゃんも願いは同じだったのだ。ならば、あの時言えなかった言葉を、俺は今彼女に告げるべきなのだろう。
「りんちゃん、俺の勝ちだね」
ゆらりと、ひと際大きく目の前の影が揺れる。
先ほどまで光の届かなかった場所にわずかに光が差したのか、腰まで届くほどの長い髪が揺れるのが見えた。
(ああ、そうだ)
りんちゃんはとても長い黒髪の女の子だった。腰ほどまで伸ばした髪が背中で揺れる姿を、彼女の後ろを追いかける俺はいつだって眺めていたではないか。
もしあの日の運命を変えることができたら、もし一緒に大人になることができていたら。
他愛ない冗談を言い合いながら同じ大学に通う未来もあったのだろうか。もしかしたら、それこそあり得ない話だが、恋愛関係になって真っ当な青春を送ることだってできたのかもしれない。
だがそれもすべて夢物語だ。
目の奥が熱を持つ感覚に、俺は思わず瞼を閉じる。子供のころのように泣いてばかりいては、りんちゃんが心配して……いや、呆れてしまうではないか。これが別れの時だというのなら、十九の立派な青年になった俺を見て、安心してもらわなければ。
目じりに浮かんだ涙を無理矢理拭い、俺はまっすぐに前を向く。
そこには、暗闇の中で静かにたたずむ一人の少女の姿があった。先ほどまでの蜻蛉の姿と異なり、今は記憶の中にある姿と全く同じ「りんちゃん」が其処に立っていた。だが、窓から差し込む光に照らされているというのに、まったく影がないその体がすでにこの世の者ではない事実を告げている。不思議と、霊と呼ばれる存在を目の当たりにしても俺の中に恐怖という感情は微塵も起きることはなかった。
「……俺も、りんちゃんと、大きくなるまでずっと一緒に居たかったよ」
その瞬間、目の前の少女の髪が大きく揺れた。
涙で滲む視界に飛び込んできたのは、こちらに手を伸ばして駆け寄る幼い少女の姿だ。ゆっくり開いた口から響く声はないが、その口が声なき声で「悟」と俺の名前を呼んだことは分かった。
「りんちゃん」
伸ばされた白い手は、指先から少しずつ闇に溶けていくように、霞のように透け始めていた。まるで役目を終えたとでもいうように、自分がこの世界にあってはならないことを思い出したかのように消えていく。
きっと彼女は最後に、別れの挨拶を告げようとしているのだろう。あの日無理矢理家から連れ出された俺達は最後の別れを告げることすら出来なかった。だが、今ならば。
きっとこれがドラマならば、感動の最終回のシーンに匹敵する場面だ。互いに手を取り、涙を流して最後の別れを告げ、りんちゃんはこの世界から消えていく。
無意識にそんな都合の良い想像を思い描いていた俺の目に映ったのは、目を大きく見開き、今にも消えそうになる体で必死に口を動かすりんちゃんの姿だった。
感動の別れとは程遠い、鬼気迫る表情を浮かべるその姿に俺は思わず息を飲む。相変わらず大きく開いた口から、声どころか呼吸の音すら聞こえることはない。だが、完全に体が闇の溶け消える刹那、りんちゃんは最後の力を振り絞るようにゆっくりと口を動かした。
たった三つの言葉。その言葉だけでも伝えようと必死に動かした彼女の唇は、俺に向かってこう告げていた。
『にげて』
逃げる、一体何から?此処にはもう暴力を振るう父親も誰もいないというのに。
だが、その答えを彼女から聞くことは叶わなかった。
まるで息をすることを思い出した、とでもいうかのように先ほどまで完全に消えていた天井の白熱灯が不規則に点滅し、薄暗い明かりが古びた部屋を照らし出す。
部屋の中には茫然と畳に膝をついたまま立ち尽くす俺の姿があるだけで、りんちゃんの姿は最初からそこに誰もいなかったとでもいうかのように消えてしまっていた。
俺の目に映るのは、相変わらず染みの浮き出た壁紙と天井、古びた畳。そして部屋の四隅に貼られたあの四枚の護符だけだ。もしかするとすべて夢だったのではないだろうか。一瞬そんな考えが脳裏をよぎるが、俺の手の中には確かに黄ばんだあの手紙が握られていた。
やはり夢ではない。だが、夢でないならばあの子は一体俺に何を伝えようとしたのだろうか。
長い間膝を付きすぎて震え始めた足で立ち上がった、その瞬間だった。
ぴんぽーん
ぴんぽーん
部屋の中に断続的に響くその音に、俺は思わず体を強張らせる。
無機質な音で響き渡るその音は、間違いなく俺の家のチャイムの音だった。
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