第32話
ぴんぽーん
ぴんぽーん
何度も部屋の中に繰り返すその音に、俺は無意識に足を玄関へと向けていた。
身についた習慣とは恐ろしいもので、どれだけ不自然な状況でも部屋の中に誰かの来訪を告げるチャイムが鳴り響くと、人間というものは無意識に玄関のドアへと向かってしまうらしい。
冷静に考えれば、今の時刻はすでに深夜零時すぎ。来訪者があるには明らかに異質な時間だ。それでなくてもこの家を訪れる人間など殆ど、いや全く存在しないといってもいい。
それこそ、運送業者の屈強な男性従業員たちですら事故物件として名高いこの家に荷物を配達することすら嫌がる始末なのだ。一度だけ同じ学部の人間が訪れたこともあったが、彼らは部屋の扉を乱暴に叩くだけでチャイムなど押さなかった。
だからこそ、俺は部屋に響く音に身構える一方で「この家の呼び鈴は壊れていなかったのか」などと、場違いな事を考えてしまっていた。
とはいえ、流石の俺もいくら男とは言え、無防備に扉を開けて深夜の来訪者が誰か確認するほど愚か者ではない。おおよそ大体の見当はついている。おそらく、頃合いを見て隣の一〇一号室の如月がやってきたに違いない。
護符の効果を確かめ、もし俺がりんちゃんと最後の別れをすることが出来たことを知ったら、成功報酬としてさらに料金を盛られるのだろうか。いや、もしかしたら先ほど俺に手渡したあの崩れたケーキが惜しくなったのかもしれない。あの男なら十分その可能性がある。
そんなことを考えながら、扉に備え付けられているのぞき穴に目を寄せた瞬間だった。
「……え」
俺は狭い視界に揺れる、見覚えのあるアッシュブラウンの髪の毛に思わず口から情けない声を漏らしてしまった。薄暗いぼろアパートの廊下の照明に照らされ、俺の家の前にたたずんでいたのは社会不適合者の如月などではない。俺の家の反対隣、一〇三号室に住む奥村先輩の姿だった。
「もしもーし、おーい。まだ起きてるでしょ、間宮君」
視界に映る奥村先輩は、扉のこちら側に俺がいるのを見越しているかのようにわざとらしく両手を口のそばに寄せ呼び掛けてくる。確かに普段の俺は日付を変わったこの時間に起きていることも多く、奥村先輩は俺の夜更かし癖を誰よりもよく知っている。
だが、俺たちはベランダ以外で会ったことはなく、奥村先輩がこうして部屋を訪ねてくるなど初めてのことだ。一体何の用事があるというのだろう。
「今日誕生日でしょ、せっかく一番乗りで会いに来てあげたのになあ」
まさか、わざわざ隣に住んでいる後輩の誕生日を祝うためだけに、それも日付が変わったすぐ後に祝うためにこうして家を訪ねてきてくれたというのだろうか。二つ年上とはいえ、こんな時間に女性一人で男一人暮らしの家を訪ねてくるなど……もしかしたら少しの期待を抱いても良いのだろうか。
先ほどりんちゃんと最後の別れを交わしたばかりだというのに、脳裏によぎった不純な考えを消し去るように俺は大きく頭を振る。何を考えているのだ。
奥村先輩はきっとこの所覇気がなかった俺を元気づけるために、わざわざこんな時間に家に来てくれただけなのだ。
扉を開けるのに警戒するような相手ではない、そう思い俺は家を守るには簡易すぎる鍵を回そうとした……その瞬間だった。
鍵へ伸ばした反対の手から、するりと白い封筒が床へとすべてり落ちていく。
まるで調子に乗った俺をたしなめるように、先ほど見つけたりんちゃんからの手紙が安堵で力が抜けた手の中から滑り落ちていってしまったのだ。ずっと一緒にいたかった、などと口にしたくせに、もう私を忘れて違う女に浮気するつもりなりのかと怒っているのだろうか。
「間宮くーん、おーい」
「あ、奥村先輩。今開けるんでちょっと待ってください」
扉に向かう足音がしたことで俺が確実に扉の前にいることが分かったのだろう。待ちきれないとばかりに弾んだ声を上げる扉の向こうの奥村先輩を制止し、俺は床に落ちた封筒を拾い上げた。
(……ごめん、りんちゃん)
拾った手紙に向かって俺は小さく頭を下げる。だが過去を乗り越えて、今を生きる人間が新しい人生を歩みだすというのはこういう事なのだ。そんな都合の良い言い訳を頭の中で紡ぎたて、黄ばんだ封筒をポケットの中にしまおうとした瞬間、小さな疑問が脳裏をよぎる。
(そういえば、俺……奥村先輩に今日が誕生日だって伝えたっけ?)
思わず手紙を持ったまま固まった俺の目に、黄ばんだ封筒に書かれた文字が目に留まる。
先ほどは封筒から取り出した手紙を読むことに精一杯で、子供らしい歪な文字で封筒に記された名前に気付くことが出来なかったのだ。
りんちゃんがあの日、俺に渡すはずだった手紙を入れた白い封筒。そこには彼女の名前がしっかりと記されていた。
『間宮悟くんへ
奥村鈴音より』
幼い子供が無理をして書いた覚えたての漢字なのだろう。ところどころ歪な形をした「鈴音」という漢字から、俺は目を離すことが出来なかった。
何故、どうして今まで「りんちゃん」の本当の名前を思い出すことが出来なかったのだろう。
脳裏に蘇るのは、俺とりんちゃんが出会ったばかりの光景だ。
ベランダを通じて現れた見知らぬ少女は、部屋の中で一人きりで過ごす俺に「おくむらすずね」と名乗った。だが、まだ幼かった上に、母親以外の人間と碌に会話をしてことがない俺は「すずね」という濁音交じりの名前をしっかり発音することができなかった。
年下の小さな少年が必死に自分の名前を紡ごうとしている姿が面白かったのだろう。少女はくすくすと笑みを零すと、俺に向かってこう言ったのだ。
「すずね、っていう名前は鈴の音ってかくの。だから特別に『りん』って呼んでいいよ。その方がおしゃれだし、呼びやすいでしょ」
その言葉に幼い俺は成程と頷いた。鈴が鳴る音でりん、それならば俺も覚えやすいし呼びやすい。
俺はゆっくりと舌足らずな口で「りんちゃん」と少女の名前を呼んだ。少女のその名前で呼ばれることを気に入ったのか、花が咲いたような笑顔を返してきた。その笑顔がまぶしくて、俺の言葉で誰かが笑ってくれたのが初めてで。それだけのことが本当に嬉しかったのだ。
それ以降俺は彼女の事を「りんちゃん」と呼ぶようになったのだ。それは唯一の友達である俺にだけ許してくれた特別な名前だった。
鈴の音。鈴音、奥村鈴音。それは間違いなくりんちゃんの本当の名前だった。
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