第30話


「……っ、り、んちゃ」


  暗闇の中で伸ばした手が宙をつかむ感覚に、俺は思わず目を開く。

 最初に目に入ったのは染みが浮き出た薄汚れた天井だった。一瞬自分がどこにいるのか分からず、背中に感じる畳の感覚に俺はゆっくりと体を起こす。

 夢と現実の境目にいるような、酷く奇妙な感覚だ。


 先ほどまでベランダの窓から差し込んでいた真夏の太陽の光は完全に消え、窓の外には夜の闇が広がるばかりだ。部屋の中には忌まわしいあの男も傷だらけの少女の姿もなく、必要最低限の家具が置かれただけの見慣れた古びたアパートの一室が広がっていた。

 もちろん机の上に置かれた、無残に潰れたケーキもそのままだ。充電切れ間近の携帯電話は、日付が変わってから数分が過ぎたことを告げるデジタル時計を映し出していた。

 酷く長い夢を見ていたような気がするが、現実ではどうやら数分程度しか時間が進んでいなかったらしい。


「……夢」


 乾いて張り付く喉で、俺は思わずそう呟いた。

 だが、先ほどまで見ていたあの光景が決して夢などではない。俺が今いるこの部屋で、十数年前に起きた事件の一部始終なのだ。今まで決して見ることのなかった、りんちゃんの最後の姿。あの姿を見ることができたのは、きっと偶然ではない。

 俺はゆっくりと机の上の携帯を手に取り立ち上がると、部屋の四隅に貼られた札へと目を向ける。如月から受け取ったばかりの時は「本当に効果があるのだろうか」と僅かな疑いもあったが、今はその疑念も完全に払拭されていた。

 部屋の天井に灯る薄暗い白熱灯が、まるで息をするように数度点滅する。まるで誘蛾灯のようにちりちりと音を立てる点滅に合わせ、俺はゆっくりととある場所に向けて歩き出した。


 和室の最奥にある押し入れ。

 其処はあの日、りんちゃんがかくれんぼの隠れ場所に選んだ場所だ。

一人暮らしで大した家具もない俺は、越してきてから一度もその襖を開けたことがなかった。収納する家具も荷物も何一つなかったからだ。茶色い染みが浮き出た襖に手を掛け、俺はゆっくりと押し入れを開ける。

 光の届かない押し入れの中は、湿り気を帯びた黴と埃の匂いで満ちていた。かつては布団や衣類が押し込まれていたその押し入れは今は空っぽで何も入っていない。時折点滅する電気の光が押し入れの中を照らすが、そこにはただ空洞が広がるだけで何も、いや誰も姿もなかった。


 だが、俺はそれに構わらずかび臭いその空間に半ば無理矢理体を滑り込ませた。古い木の板が僅かに身じろぐだけで悲鳴を上げ、ぎしぎしと嫌な音を立てる。

その音を無視し、俺は携帯のライトで押し入れの中を照らした。埃が積もった押し入れの上段に這い上がり、俺は目的のものを探し続ける。

 かくれんぼを始めた時にりんちゃんが持っていて、あの最後の瞬間に彼女がもっていなかったもの。それがきっとこの押し入れのどこかに、まだ眠っているはずなのだ。

 鼻や口に容赦なく入ってくる埃に耐え、俺は必死にわずかな光で押し入れの奥を照らし、それを見つけた。押し入れの上段と下段を分ける木の板と壁の僅かな隙間。まるで誰にも見つかってはいけない宝物を隠すように、その白い封筒は眠っていた。

指の腹で何とか封筒を引き上げれば、先ほど見た夢の中のものよりも随分と黄ばみ染みが浮かんでしまっていた。おそらくここに隠された長い年月の間に、誰の手も触れられていないとはいえ少しずつ劣化していってしまったのだろう。

 俺は壊れ物を抱くようにその小さな封筒を手に持つと、そっと押し入れから抜け出した。

 パリパリに乾燥してしまった封筒を開き、中に入っていた一枚の紙をゆっくりと広げる。汚れてしまった封筒に比べ、まだ中に収められた手紙は当時の白さを保っていた。

 封筒と同じように難の飾りもない、ただの白い紙。

 これが当時のりんちゃんに用意できる精一杯の手紙だったのだろう。真っ白な紙いっぱいに、クレヨンで描かれた子供らしいひらがなばかりの文字が躍っている。


『おおきくなっても、ずっといっしょにいようね』


 りんちゃんが、あの日かくれんぼで勝って俺に告げるはずだったお願いの言葉。俺が聞くことができなかった言葉。

 あの日からずっとあの子はこの場所で、俺を待っていてくれたのだ。

 俺は震える手で手紙を握りしめることしかできなかった。あの日、小さな俺がかくれんぼに勝ってりんちゃんに言おうとした言葉。それは奇しくも手紙に書かれた言葉と全く同じものだったのだ。

 幼い俺が彼女に抱いていたのは、きっと恋心などという純粋な感情ではなかったのだろう。

 つらい環境の中で、お互いの傷を慰めあっただけの関係だったのかもしれない。それでも、俺はりんちゃんのことが大好きだった。ずっと彼女と一緒にいて、彼女と一緒に年を重ね、大きくなってもずっと一緒にいられるのだと信じていた。

 いつか自分を置いて離れていってしまうのが嫌で、誕生日に勝負に勝って「大きくなってもずっと一緒にいてほしい」とお願いするつもりだったのだ。これではどちらが勝っても結果は変わらなかったではないか。

 気が付けば両の目からこぼれた涙が手紙に落ち、クレヨンで書かれた文字が滲んでいく。慌てて紙の上の水滴を擦ると、俺はゆっくりと顔を上げ涙でゆがむ視界に映る青に向かって口を開いた。


「りんちゃん、みぃつけた」


 ぶつりと音が響き、部屋の中の照明が消える。

 照明に代わるようにベランダから差し込んでくる僅かな月の光が、畳の上に立つ白い痩せた足と、彼女のお気に入りだったあの青いスカートを映し出していた。


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