第29話
あの男が帰ってこないよう祈り続ける俺をあざ笑うかのように、先ほど閉まったばかりの扉が鈍い音を立てて開いていく。誰が家に帰ってきたのか、俺はすぐにわかってしまった。
扉の向こうから現れた男の姿に、俺は夢の中だと分かっていても胃からせり上がってくる吐き気を抑えることができなかった。もう一生見ることもないと思っていた、この世で一番憎くてたまらない男の姿が其処にはあった。
昼間だというのに足元がおぼつかないのは、仕事もせずに浴びるように酒をあおっていたからなのだろう。赤ら顔に焦点の合わない目。おそらく酒と博打で有り金を使い果たし、どこにも行く当てがなくなったので家に戻ってきたのだろう。
普段から最低な男だったが、博打に負けた日のこの男は類を見ないほどに最低の人間だった。勝手に生活費まで使い込み、賭け事に負けたのは自分だというのに、おさまらない苛立ちを家から逃げることのできない幼い俺や母親にぶつけてくる。
当然幼い俺は何故父親が自分を殴るのか分からなかった。何も知らない無知な子供は、父親が自分を痛めつけるのは自分が知らずに何か悪いことをしてしまったからだと疑わなかった。だからこそ、振り下ろされる拳に幼い俺は壁際にうずくまりただ「ごめんなさい」と泣きながら謝ることしかできなかったのだ。
だが、もっと酷い仕打ちを受けていたのは母親の方だ。
父親を止めることができない彼女にできたのは、ただ体を張って殴られる俺と父親の間にはいることだけだった。容赦なく振り下ろされる拳を細いからで受け止めながら、泣くことも諦めてしまった母親の姿を俺は鮮明に覚えている。
いつも通り不機嫌な顔で戻った父親は、すぐに家の中の異変に気が付いた。金をすってしまった気晴らしに、サンドバッグ代わりに殴ろうとした二人が家の中にいないのだ。
家庭内暴力を振るっている自覚があった父親は、母親と幼い俺が外に出ることを極力許さなかった。必要最低限の買い物程度は許されていたが、それでも外で誰かと言葉を交わすことなどもってのほか。公園で同い年の子供と遊ぶことなど決して許されなかった。
頭の悪い男ではあったが、こういう時の機転だけは無駄に早かった。
家の中の畳んだ洗濯物や洗い物もそのままに、不自然に消えた二人がどこに向かったのかわかったのだろう。男はいら立ちを隠さない荒い足取りで家の中に上がると、畳まれていた洗濯物の山やゴミ箱を蹴り飛ばしていく。
畳の上にゴミが散らばる中、男は獣のようなうなり声をあげ、先ほど自分が入ってきたばかりの扉を睨みつけた。
(……本当に、俺たちが出てすぐ戻ってきたんだな)
男が帰宅したのが、俺たちが家を出てからすぐ後のことだったというのは、後に見た新聞記事で知っていた。壁にかかっている時計を見ても、母親が俺を連れ出してからまだ十分程度しか時間は過ぎていない。
かつてその事実を知った時も不思議に思ったが、こうして今過去の出来事を現実に目の当たりにすると猶更不思議で仕方がない。この男の性格を考えればすぐにでも家から飛び出し、それこそ手あたり次第に俺たちが向かいそうな場所を探して回るだろう。
片方は幼い子供を連れた女、もう片方は自由に動き回れる男。すぐに追いかければ、きっと俺たちのことなど簡単に見つけることができたはずだ。だが、この男はそれをしなかった。
一体何故、その答えを俺はすぐに知ることになる。
男が扉に向かおうと足を向けたその瞬間、俺の背後で何かが擦れるような小さな音が響く。怒りで半ば我を忘れている男はその音にまだ気づいていないが、俺は背後から響くその音が押し入れのふすまが僅かに開く音だと分かってしまった。
押し入れの中に隠れていた少女も、流石に部屋の中の異変に気が付いたのだ。
数センチほど開いた黒い隙間から、少女の顔が薄く暗闇に浮かび上がる。少女は部屋の中に光景に、驚き小さく引き付けるような声が漏れた。慌てて量の手で口を押えると、先ほどまでともに遊んでいた少年が消え獣のような男が一人が佇む荒れた部屋を目に映した。
(駄目だ、今出てきちゃ駄目だ)
りんちゃんは隠れることが何よりも得意だった。このまま押し入れの中に隠れていれば、彼女がこの男に見つかることはなかったはずだ。
(頼むから、そこから出てこないでくれ)
届くはずのない言葉を、俺は押し入れの中にいる少女に懇願することしかできなかった。
俺の後ろで、小さく息を飲む音が響く。
男がゆっくりと、扉に向かって歩き出したのだ。俺と母親を連れ戻し、この部屋に再び閉じ込めると決めたのだろう。握りしめた手は怒りでぶるぶると震えているのが見えた。
あの男が玄関の扉に手をかけた、その瞬間だった。
「……待って」
蝉の音に掻き消えてしまいそうなほど小さな、だが凛とした声が部屋の中へと響き渡る。
俺は押し入れから飛び出していった小さな体を、ただ見送ることしかできなかった。
部屋の中に響いたその声に、男はゆっくりと振り返り目を見開いた。そこには家の中にいるはずのない、家族の一員ですらない隣家の少女がこちらを睨みつけるように立っていたのだ。
「んだ、お前。なんで俺の家に……待て。お前、そこにいるってことは、あいつらがどこに逃げたか知ってんだろ!」
酒で呂律の回らない声で、男は怒鳴り散らす。
ずかずかと家の中へ戻ってきた男は、まだ年端の行かない少女の肩を乱暴に掴んだ。手加減という言葉すら知らない男に体をつかまれ、幼い少女が痛みや恐怖を感じないはずがない。
痩せた少女の手が、お気に入りの青いスカートの裾を握りしめ、酷い皺になってしまっている。だが、それでも彼女は恐怖に涙をこぼすことはなかった。それどころか男の神経を逆なでするかのように、年齢にそぐわない嫌味を含んだ笑みを浮かべ、まるで挑発にするように言い放った。
「う~ん、知ってるけど。教えてほしかったら、今日が何の日か当てられたら教えてあげる」
どうせ応えられるはずがないと嘲るような少女の声に、俺は「やめろ」と叫ばずにはいられなかった。
この男は子供の冗談が通じるような相手ではない。そもそも話が通じるような人間ですらないのだ。案の定、少女の問いに男が応えることはなく、代わりにりんちゃんに振るわれたのは固く握りしめられた筋張った男の拳だった。
殴られた細い体は、まるで玩具のように鈍い音と共に吹き飛ばされ畳の上に転がってしまう。震えながら顔を上げた少女の右頬は不自然なほどに腫れ、口端からは赤い血が混じった涎がこぼれていた。
大人だって気力を失うような暴力だ。こんな乱暴を受ければ、年端もいかない子供であればすぐに泣きだすものだ。幼い俺が父親に殴られては、泣いてばかりいたように。
だが、りんちゃんは机の上に残されたケーキの空き箱にちらりと視線を向け、もう一度男に向かって笑い声を浴びせて見せた。無理やり袖で口元を拭ったせいで、白いブラウスに赤い血の汚れがついてしまう。
「分からないなら、どこに行ったか教えてあげない」
「……なめんじゃねえぞ、糞餓鬼が!」
今度は細い体の鳩尾に、男の足がめり込んだ。
何かを吐き出すような嗚咽と、骨がきしむ鈍い音に俺は思わず目の前の光景から目を背ける。
何故、りんちゃんは男の神経を逆なでするような事ばかりいうのだろうか。りんちゃんは俺が家から姿を消したことを知ってはいるが、どこに向かったのかは知るはずがない。ただたまたま遊びに来ていただけで、二人がどこに行ったか知らないといえば男も流石に無関係な隣家の少女を解放しただろう。
だが、彼女は決して逃げることはせず、ただ男を馬鹿にしたように笑い続けた。
(……なんで)
吐き出した吐瀉物で畳を汚しながら、震える足でもう一度立ち上がろうとする少女に向かって俺は届かない声で叫び続ける。やめろ、もうやめてくれと。
だが届かないその声にりんちゃんが振り返ることはない。それどころか、腫れあがった瞼を必死に開き、男の先のある場所を見つめ続けている。その場所は、外に通じる部屋の扉だった。
(……まさか)
幼い瞳に宿った決意に、俺は気が付いてしまった。
幼いながらに聡明な彼女はきっと俺と母親がどこに向かったのか、薄々と気づいていたのだろう。この男から俺たちが逃げ切るために足りないのは時間だ。もしすぐに男が俺たちの後を追い、家の中に連れ戻されれば今まで以上の地獄が待っている。
それこそ、幼い俺はこの父親の気が済むまで殴られ蹴られ、二度と目を開けることがないかもしれない。彼女は男が俺たちを追いかけた先にある地獄を知っていた。
だからこそ、りんちゃんは隠れていたあの場所から飛び出してきたのだ。たとえ自分の命と引き換えにしても、俺が逃げるための時間を一分でも多く稼ぐために。
「……悟のお誕生日もわすれてるひとに、おしえてなんてあげない」
少女はまっすぐに男を見つめ、軽蔑するように言い捨てた。
その言葉が男の逆鱗に触れたのだろう。
男は机の上に置かれていた、長い間何も飾られていない薄汚れた花瓶を手に取ると力任せに少女の頭めがけて振り下ろされた。人の体から響いて良いはずがない、鈍い音が響く。
「あーあ、かくれんぼ。まだ途中だったのにな」
きっと今回も私が勝ちだったのに。
既にりんちゃんの面影がないほどに腫れあがった口から漏れたその声が、無意味だと分かっていても振り下ろされた男の手を止めようとした俺の耳に静かに届く。
伸ばした俺の腕はまるで霞のように男の手を通り抜け、背後で骨が砕けるような鈍い音が響き渡り……俺の視界はその瞬間に暗転した。
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