第28話
ケーキを全て口におさめた俺の姿を見届けると、りんちゃんは「待っていました」とでもいうように立ち上がる。
「さあ、今日も遊ぶわよ!」
りんちゃんの母親が仕事に出かけ、俺の両親が不在の僅かな時間だけ与えられる二人だけの自由な時間。今は母親が唯一許された外に出る時間として買い物に出かけているが、それでもそこまで長い間家を空けるわけではない。
遊び盛りの俺たちには時間が足りないのだ。それは幼い俺もよく分かっていた。
だからこそ、口の中に残っていた苺の最後のひとかけを飲み込むと、俺も望むところだと立ち上がる。りんちゃんとの遊びは、確かに遊びではあるが真剣勝負なのだ。勝った方が必ず相手のお願いを一つ聞く、というのが幼い俺たちのいつのころからの決まり事になっていた。
とはいっても、大抵の場合りんちゃんが勝つことが多く、俺はと言えば彼女の小さなお願いをいつも不満気な顔で叶えることが多かったのだが。
だが、その日の俺はりんちゃんから遊びの誘いがかかるのを、いつも以上に心待ちにしていた。まさかの遊びの前にケーキを食べさせてもらえる、という予想外の出来事があったが、俺にとってはここからが本番なのだ。
いつもは負けてばかりだが、何せ今日は俺の誕生日なのだ。今日こそはりんちゃんの勝負に勝ち、誕生日のプレゼントとして「あること」をお願いをすると昨日から心に決めていた。
幼い俺の小さな決意が伝わったのか、りんちゃんも負けずと胸を張る。
「今日はどっちが鬼?」
「僕が鬼、だからりんちゃんは隠れてね」
「今日も私が勝っちゃうから」
「そんなことない、僕が勝つ」
何度も繰り返し夢の中で見たこのやり取り。
ここから先は、すでに俺が何度も夢で見たことのある展開だ。幼い俺が柱に顔を付け、ゆっくりと数を数え始める。本当は百数えた後に隠れたりんちゃんを探しに行くのだが、五十を数え終わったころに俺は母親に家から連れ出されてしまう。
りんちゃんを家に一人残したままで。
だが、今見ている夢はいつもと少し違っていた。
いつも見る夢であれば、俺の視点は幼い俺と同じだ。数を数えている間は暗闇に閉ざされ、りんちゃんがどこに隠れたのかを知ることはない。
だが、今日は違った。
幽体離脱、とでもいうのだろうか。先ほどまで意識を宿していたはずの体から、気づけば俺ははじき出されていた。青年の姿に成長した俺は、幼い自分とは全く別の人間として部屋の中に立っていたのだ。部屋の中に見知らぬ男がいるというのに、幼い俺もりんちゃんもこちらに気付いていないところを見ると彼らには俺の姿は全く見えていないのだろう。
ためしに柱に顔を付けて数字を数え始めた幼い俺の肩に触れようとしたが、まるでこちらが幽霊とでもいうかのように半透明に透けた手がすり抜けてしまった。だが、俺の後ろで悪戯じみた表情を浮かべて歩き出したりんちゃんを前に、おれはふと我に返る。
こうして彼女の姿が見えている、ということはつまり彼女がどこに隠れたのかを見届けることができるということだ。
なんとも言えない不思議な気持ちで、幼い少女が歩き出した後を俺はゆっくりと追いかける。彼女に俺の姿が見えていないので気づかれることはないはずだが、それでも一度何かを思い出したようにりんちゃんが立ち止まり振り返った時はさすがに心臓がはねた。
「ふふっ」
まるで何やら悪戯を企んでいるような表情でりんちゃんは笑うと、青いスカートのポケットからなにやら小さな白い封筒のようなものを取り出した。
(……なんだあれ、手紙か?)
飾りのない、ただの小さな白い封筒。手にしたそれをりんちゃんは大切そうに確かめる。
何が書いてあるのか覗き込む前に、りんちゃんは再びそれをポケットの中へと押し込んでしまった。ポケットの中に確かにそれを仕舞ったことを確かめると、今度こそ鬼から隠れるために急ぎ足で部屋の中を歩き始めた。
何処に隠れるつもりか、既におおよその目星はつけていたのだろう。
りんちゃんは和室の奥にある押し入れのふすまを開けると、細い体をその上段にするりと滑り込ませた。押し入れの中には敷布団や普段使っていない季節ものの衣類などが仕舞われている。重ねられた布団の隙間に体をねじ込めば、襖をあけても彼女が其処に隠れていることに気付くことは出来ない。
少しばかり悔しいが、きっと幼い俺が鬼として彼女を探したとしても、彼女がここに隠れていることに気付くことは出来なかっただろう。
りんちゃんはいまだ数字を数え続ける俺を一度だけ覗き見ると、小さな笑い声と共に押し入れの内側から襖をゆっくりとしめてしまう。最後に見せた勝ち誇ったような笑顔を見る限り、絶対に見つけられないという自信があったのだろう。
一人きりになってしまった部屋の中で、幼い俺の舌足らずな声が響き渡り、四十九、五十と百の半分まで数え終え、そして口をつぐんだ。五十まで数えたは良いものの、五十の次の数字が何だったか分からなくなってしまったのだ。
「ごじゅう……」
もう数を数えるのを諦めて、りんちゃんを探しにいってしまってもいいだろうか、
そんな不安げが滲む声が紡がれた瞬間、勢いよく家の扉が開く音が響き渡る。突然の音に、顔を柱に押し付けていた俺は驚いたように顔を上げた。
息を切らして家の中に飛び込んできたのは、記憶にあるよりも随分と若い姿の俺の母親だ。数か月前に病院のベッドの上で息を引き取った時は髪の毛は殆ど白くなり、本来の年齢よりもずっと年老いて見えたが、今目の前にいる母親はまだ若さを感じられる年齢だ。
「……悟、行くわよ!」
「お母さん、待って。どこにいくの」
「今話している時間がないの、あの人が帰ってきちゃう。これが最後のチャンスなの、逃げるわよ」
幼い俺は買い物に行ったはずの母親が、荷物も持たず突然息を切らして帰ってきたことに驚いていた。だが、何より驚いたのは普段殆ど口を開くこともなく、まるで生気のない人形のように父親のいいなりになっていた母親の目に、今まで一度も見たことがない決意がにじんでいたことだ。
あの頃の俺は何が起きたのかわかっていなかったが、今ならば母の行動が理解できる。母親は長い時間をかけて、「買い物に行く」というわずかに許された時間の中、自分と俺とかくまってくれるシェルターを探しまわっていたのだろう。そしてついに見つけた保護シェルターに逃げ込むために、父親が酒を煽りに出かけている僅かな時間を狙い俺を家から連れ出そうとしたのだ。
当然、隣家の子供が隠れて遊びに来ているなど知らない母親は、りんちゃんがまだ家の中に隠れていることを知らなかった。俺はといえば、母親の鬼気迫る様子に「りんちゃんが家の中にいる」という秘密を打ち明けることもできず、ただ母の腕の中に抱かれ家から連れ出されることしかできなかった。
家の中に残された俺の目に、母親の腕に抱かれ家から連れ出される幼い自分自身の顔が映る。何かを訴えるように大きく見開かれた目。中途半端に開かれた口。きっと部屋のどこかに残された少女に何かを告げようとしたのだろう。
だが、その口が言葉を紡ぐことはなく、幼い俺はりんちゃんに別れを告げることさえできなかった。嵐のような一瞬の騒がしさが消え、部屋の中に残ったのは響く蝉の音だけが降り注ぐ静寂だった。かくれんぼの途中だというのに、鬼はいなくなってしまったのだ。
(りんちゃんは……)
俺は先ほどりんちゃんが隠れた押し入れへと目を向ける。
押し入れの中、布団の隙間に隠れた彼女の耳には部屋の中で起きた一瞬のこの騒動が聞こえていなかったのだろう。ぴたりと閉じた襖が開く気配は全くない。
おそらく彼女は細い体を縮こまらせ、幼い俺が必死で自分を探していることを疑っていない。
早く、あのろくでなしの父親が帰ってくる前に押し入れから出て自分の家に戻るんだ。
だが、押し入れの前で必死に中にいる少女に声をかけたところで、過去の彼女に俺の声は届かない。どれだけ俺が願ったところで、過去が変わることは決してない。
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