第27話

「……もうすぐ誕生日か」


 机の上に置いた携帯電話に映るデジタル時計が、あと数分で日付が変わることを告げている。

 貴重な十代最後の誕生日だというのに、俺はといえばたった一人で和室に置かれた古びた机の上に体を伏せ、目の前にはケースの中で無残に潰れたケーキがおかれているというなんとも物悲しい状況だ。その上、どれだけ目を逸らそうとしても部屋の四隅に貼った何とも言えぬ重苦しさを放つ札が目に入ってしまう。


(本当にこんなの、効果があるのかよ)


 ふと心の底で疑いが芽吹くが、俺は慌てて心の中で呟いた言葉を否定するように目を閉じた。

 如月がこの札を渡すときに告げていたではないか。護符、というのは決してその効果を疑ってはいけない。もし疑えば、逆の効果を生むこともあるのだと。


「りんちゃん」


 必ず彼女に会うのだという強い決意で、俺は静かにこの部屋にいるはずの少女の名を呟いた。

 喉からもれたその名前に、応える声はない。


(……そういえば、さっきのあの言葉の意味、どういうことだった?)


 別れ際に如月が発した「奥村すずね」という名前に覚えがないかという言葉。

 俺と彼女はどこかで会ったことがあるのだろうか。過去の記憶を探るが、俺の記憶の中で「奥村すずね」という単語を拾い上げることはどうしてもできなかった。

 りんちゃんの事に集中しなければいけないというのに、如月の言葉のせいで奥村先輩のことも気になって仕方がない。一度思考から逃げるために机に伏せた体を起こせば、ふと目の前の潰れたケーキが目に映る。

 如月から誕生日祝いに貰ったものとはいえ、元々は俺の財布から出したなけなしの金でかったものだ。とはいえ、自身の誕生日にこうしてケーキが目の前にあるのはこれが初めての事ではないだろうか。


 決して俺は幼いころから甘いものが苦手な子供だった、というわけではない。

 母親と共にこの家を出るまでは稼ぎはすべてギャンブルと酒に費やす父親が財布を握っていたため、子供の誕生日だからといてケーキを買ってもらえた記憶など一度もないのだ。

 この家を出てからも、幼いながらに女手一つで俺を育てる母親の苦労を分かっていたため「甘いものは好きではないから」と言って誕生日にせめてケーキでも買おうとする母親を止めていたのだ。


(いや、一回だけ)


 ふと、記憶の中で一度だけ誕生日にケーキを食べた記憶が蘇る。

 誕生日を象徴する白くて甘い、幸せな味。あれは一体いつのことだっただろうか。


(……ああ、そうだ。あれは確か)


 脳裏に浮かんだ光景が、少しずつぼやけていく。

 現実と過去の記憶が溶け合うような感覚に、俺はゆっくりと目を閉じた。普段であればまだ眠るには早すぎる時間だというのに、これ以上目を開けていることがどうしてもできなかったのだ。

 少しずつ狭くなっていく視界で、俺が最後に見たのはちょうど日付を超え、携帯の時計が0時0分という表示に切り替わる瞬間だった。



◇◇◇



 こんこん、じわじわ

 じわじわ、こんこん


 蝉の声に紛れるように、どこからか響いてくる小さな音に俺は慌てて顔を上げる。

 どうやらずいぶんと深い眠りの中に落ちてしまっていたらしい。慌ててあたりを見回せば、窓の外は完全に日が昇り切っているのか、夏の日差しがベランダの窓から差し込んできていた。

 あのまま机の上で夜が明けたことにも気づかず寝こけてしまったのかと、俺は慌てて体を起こす。


 だが、俺は目の前に広がる部屋に思わず息を飲んだ。

 先ほどまで自分がいた部屋は机以外ろくな家具もない、がらんとした物寂しい部屋だったはずだ。だが、今目の前に広がる部屋は随分と生活感であふれている。

 箪笥や姿見の鏡、そして畳の上には取り込まれたばかりなのか、きれいに畳まれた洗濯物が置かれている。それだけではない。俺が暮らしている一〇二号室の部屋よりも壁や天井も汚れや染みが少なく、ずっと小綺麗だ。


 一体これはどういう事だろう、と立ち尽くす俺の耳に再び急かすような小さな音が響く。その音はベランダの窓から響いていた。

 そして窓の外からその音を響かせる人物を見つけた時、俺は息を飲んだものの、すぐに「ああ、これはいつもの夢なのだ」と腑に落ちた。

 窓の外に立つその人物が視界にはいった瞬間、俺の意識とは関係なく俺の体が動き始めたからだ。この感覚は、何度も繰り返し見るあの夢で味わったことがある。自分の意志で会話をすることや動くことは出来ず、過去の自分に意識だけや宿っているような感覚だ。

 ただ一つ、今回の夢がいつもと違うのは夢の始まりがいつもの「かくれんぼ」からではないということだ。

 ベランダの窓の外、そこには青いスカートを着た長い黒髪の少女、りんちゃんが立っていた。

 彼女がやってくるのは、必ずこのベランダからだ。

 壊れた仕切り板を器用に潜り抜け、俺の家に両親がいないことを確認するとこうしてベランダの戸を叩いて「早く入れろ」とばかりに催促してくる。俺はいつもより低い視界の体で立ち上がると、りんちゃんを部屋の中へと迎え入れるべく、小さな手を伸ばしベランダの鍵を開けた。


「もー、遅い!あんまり外にいてママに見つかったら大変なんだから」

「ご、ごめんね、りんちゃん」


 窓を開けた瞬間降り注ぐその声に、俺は思わず体を竦める。そう年も変わらないはずなのに、りんちゃんの方が頭一つ分ほど俺より背が高かったのだ。

 成長してから知ったことだが、幼いころは女の子の方が体つきが良いことはよくあることらしい。例にもれず、俺はりんちゃんよりも随分と体が小さかった。その上、たどたどしい話し方しかできない自分に比べ、りんちゃんは随分と大人びた口調で話す子供だった。

 幼いながらにどこか大人びた雰囲気を持つりんちゃんに責められ、俺は情けない声で謝ることしかできなかった。

 小さな俺の情けない姿を見て機嫌を直したのか、りんちゃんはまるで勝手知ったる我が家とでもいうかのように部屋の中に上がり込むと、和室の中央に置かれた机に隠すように持っていた白い紙箱を置いた。何処か見覚えのあるその箱には、『スヴニール』という店名が印字されているのが見える。

 だが、幼い俺はその箱が何か全く分からなかったのだろう。


「なに、これ?」


 わざとらしく、それこそ見せつけるように置かれたその白い箱に幼い俺は「一体この中に何が入っているのか」と首を傾げた。


「前に悟が話してたでしょ?お誕生日に食べたいものはあるって聞いたら」

「もしかして、ケーキ?」


 幼い俺は少しばかり考えた後、思い出したように声を上げる。

 その言葉に「大当たり」と大人びた笑みを浮かべると、りんちゃんは細い指でタカ箱を開けるようにゆっくりと白い紙箱を開けはじめる。白い紙箱の中には、小さな三角形のショートケーキがまるで宝物のように丁寧に包まれていた。

 俺は目の前に現れた、それこそ今まで絵本の中でしか見たことがなかったケーキという存在に小さく歓声をあげる。

 父親の気まぐれで中古で買い与えられたぼろぼろの絵本の中に、誕生日を迎えた男の子がケーキを囲んでパーティーをするシーンがあった。誕生日プレゼントも気になったが、絵本の中の男の子が笑顔で頬張るケーキという存在に幼い俺は目が釘付けになっていた。いったいケーキというのがどんな食べ物なのか俺は今まで見たことがなかったからだ。

 その念願のケーキが、絵本の中から飛び出して目の前に実在しているのだ。


「これ、本当はママが私のためにかってきてくれたケーキなの。スヴニールっていうとっても有名なお店のケーキ。時々ママが私のために買ってきてくれるの」


 りんちゃんはそう言うと、自慢げに笑って見せた。幼い俺は「誕生日でもないのに母親がケーキを買ってきてくれる」ということが純粋に羨ましく、「いいなあ」と口をとがらせて彼女を仰ぎ見た。

 だが、今の俺は知っている。

 実のところ、彼女の母親は、りんちゃんのためにケーキを買ってきたことなんて一度もない。時折気まぐれに持ち帰るケーキは、すべて彼女の母親が店の客にもらったものを「食べずに捨てるよりは」と与えていたにすぎない。

 りんちゃんの母親は、いわゆる水商売を生業にする女性だった。父親とは離婚したのか、それとも結婚をせず一人でりんちゃんを生んだのかはわからない。

 だが彼女の母親にとって、幼い子供は商売の邪魔でしかなかったのだ。子供がいることがばれれば、寄り付く男が少なくなることを彼女の母親はよく知っていた。だからこそ独身のふりをする母親はりんちゃんを家に閉じ込め、決して外に出ることを許さなかった。

 最低限の衣食住は与えるが、愛情を注ぐことはない。そうやって育ったりんちゃんにとって、時折母親が嘘と共に持ち帰る「あんたの為に買ってきてやったわよ」というケーキはどれだけ嬉しかったことだろう。


 今目の前に置かれたこのケーキも、きっと母親が気まぐれに客からも貰いものを持ち帰ってきたにすぎないのだろう。だが、それでも母親からもらった大切なケーキを彼女は自分で食べることなくこの家に持ってきた。理由は一つ。


「今日は悟の誕生日でしょ、特別に私の大切なケーキ分けてあげる」

「……い、いいの?」

「私がいいって言ったらいいの。私の方が悟よりお姉さんなんだから」


 だから気にせず食べなさい、とりんちゃんはプラスチックのフォークで掬ったショートケーキを俺の口の中へと半ば無理矢理突っ込んだ。突然口の中に押し込まれたケーキを、俺は小さな口で必死に噛みしめる。舌の上に広がる今まで食べたことのない甘いクリームと、甘酸っぱい苺の味に俺は思わず目を瞬かせ、ゆっくりと口の中の幸福を味わった。


(……ああ、そうか)


 もう一口と、まるで餌をねだる雛鳥のように大きく口を開ける俺に「仕方ないわね」と笑いながら、りんちゃんはケーキをフォークに乗せて運んでくれる。俺の記憶の中にある、たった一度。たった一度だけ誕生日にケーキを食べた記憶というのはこの日のことだったのだ。

 ケーキを口いっぱいに頬張りながら、俺は無意識にりんちゃんの姿を目に映した。口では「私に感謝しなさいね」などと皮肉じみた言葉を口にしているが、それでも俺を見つめる目は誰よりも優しい色を宿していた。

 お互いまだ十歳にも満たない幼い子供だ。

 片方は半ば育児放棄をした母親のもとに生まれ、そして俺はと言えば暴力を振るう父親に支配された最悪な家族の一員として生まれた。互いに家から自由に出ることも許されず、当然同年代の友達など一人もいない。


 だからこそ、りんちゃんと二人でいられるこのわずかな時間は俺にとっても、そして彼女にとっても何よりも大切な宝物だった。

 物心つくときから唯一俺のそばにいてくれた家族のような親友と、この先もずっと一緒に入れるのだと疑いすらしていなかったのだ。


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