第26話

 熱帯夜の深夜の夜道を、俺は無駄に上機嫌な如月の背を追いかけながら歩き続ける。


 両腕には山のように詰め込まれたチューハイとコンビニスイーツの袋が食い込んでいる。一体何が悲しくて、十八歳最後の夜をこんなオカルトマニアの社会不適合者と共に歩かなければならないのだろう。絶世の美女……とまでは言わないが、せめて大学生らしく他愛のない話で笑いあえるような、そんな彼女と歩きたかったものだ。


(……それこそ、奥村先輩みたいな)


 ふと脳裏に浮かんだ一〇三号室の住人の顔が思い浮かび、俺は慌てて首を振る。

 以前冗談まじりに告げられた「私の事、彼女にしてみる?」という悪戯じみた表情で笑う姿を思い出してしまったのだ。あれは間違いなく、彼女が一度もいたことがない哀れな後輩をからかう言葉だ。

 本気にしてはいけないと分かっていても、あの夜にかけられた言葉を思い出し無意識に顔に血が上ってしまう。この後如月から札を受け取ったら、りんちゃんと真剣に向かい合わなくてはいけないというのに。


「そ、そういえば」


 脳裏に浮かぶ奥村先輩の姿を消すために、俺は思わずどこか外れた音程で鼻歌を口ずさむ如月へと声をかけていた。あと十数メートル歩けば家につく、というところで足止めされたことが不満だったのだろう。隠すことなく不機嫌です、という顔で振り向かれ、俺は慌てて言葉をつづけた。


「如月……先輩も立池大学だったんですね」

「だから何?」


 それだけ返すと既に会話の内容に興味を失ったのか、再び如月は前を向いて歩き始めてしまう。どうやら会話のキャッチボールという概念はこの男の中には存在しないらしい。


「俺、経済学部なんですけど。如月先輩は文学部なんですね」


 諦めにずに続けた俺の言葉に返事はない。


「文学部の三年……ってさっき偶然学生証が見えて」


 正確には偶然見えたのではなく、目を凝らしてみたのだが。やはりこの言葉にも返事はない。気が付けば、如月の背を必死で追ううちに一〇一号室の部屋の前についてしまっていたようだ。


「それ、寄越せよ」


 先ほどまでの上機嫌は何処へ行ってしまったのか。やはり無断で個人情報をのぞき見たことがよほど気に食わなかったらしい。俺はしぶしぶ両腕にぶら下がったパンパンのビニール袋を如月に渡すことしかできなかった。


「文学部三年ってことは、一〇三号室の奥村さんと同じですよね。同じ年齢には到底見えないですけど」


 もちろん最後の「同じ年齢に見えない」は皮肉だ。だが、突然こちらを振り返った如月の眼光の鋭さに俺は思わず肩を竦めた。もしかすると年齢の話題はタブーだったのかもしれない。それこそ数年浪人してとうに二十歳を超えていた可能性だってあるではないか。


「……奥村?」


 その言葉と共に、夜の闇に重い音が響き渡る。如月が渡したばかりのコンビニの袋を地面に落としたのだ。ぐしゃりと崩れてしまった袋の中では、きっとショートケーキが無残な姿になっているのだろう。


「ちょっと、何やって……」


 折角今月の生活費を削っておごってやったというのに、これではあんまりではないか。急いでこぼれてしまった酒の缶を拾おうとする俺を如月の声が制した。


「お前、一〇三号室の奥村っていったのか?」

「え、っと……はい。奥村すずねさん……ですけど。知ってますよね?」


 同じ屋根の下に住む人間の事を調べる、と言っていたのは如月ではないか。少なくとも奥村先輩は俺より早くこのアパートに居を構え、如月との付き合いも長いはずだ。それなのに、まさか同じ学年、同じ学部で知らないということがあるのだろうか。

 どちらも口を開かかない、重い沈黙を破ったのは如月の方だった。落ちたビニール袋に乱暴にこぼれた酒の缶を詰め直すと、そのまま一〇一号室の奥へと姿を消してしまう。

 もしやこのまま奢るだけ奢らされて終わりなのでは、と一瞬不安になった俺の前に再び如月は戻ってきた。手にあの曰くしかない札を持って戻ってきた如月の口が、何かを確かめるようにゆっくりと開く。


「お前は奥村すずねという人間に、覚えがないのか?」

「……は?」

「……いや、分からないなら別に良い」


 如月が発した言葉の意味を理解することができず、俺はただ情けない声を漏らすことしかできなかった。覚えがないとは一体どういうことだ。一体目の前の男は何を言っているのだろう。

 質問の意図を理解することができず固まってしまった俺を前に、如月は少しばかり目を細めた。俺の表情から何かを確かめようとしているのか。探るようなその姿がまるで蛇のようで、俺は居心地の悪さに思わず視線を逸らす。

 数十秒の沈黙の後、如月が諦めたように口を開いた。


「まあ、約束は約束だからな」


 そういうと、如月は俺の腕の中に赤い血文字が加えられた札を押し付けた。


「いいか、お前が呼びたい相手の事だけを考えろ。雑念があると余計なものまで寄ってくるからな。終わったらすぐに剝がせ」


 全てことが済んだら、あとは適当な神社にでも頼んで炊き上げてもらえ、と如月は冷たい声で続ける。

 おそらく渡した後の事は完全にアフターサービスの対象外ということなのだろう。札は渡し、酒とつまみを貰って契約は終了したとばかりに部屋に戻ろうとする如月に俺は慌てて声をかけた。


「ちょ、ちょっと待ってください。さっきのって」


 先ほど彼が言った「奥村すずねという名前に覚えがないか」という言葉の意味が分からなかったからだ。だが如月はこれ以上面倒ごとにかかわるつもりはない、とでもいうように一度だけこちらを振り返り、冷たい声で言い放った。


「……お前がめんどくさい女に気に入られやすいってことだけは、よく分かったよ」


 これはもう少しで誕生日を迎えるお前に俺からの選別だ、と如月は札を持つ俺の手に何やら生ぬるいものを手渡すと今度こそこちらを振り返ることなく、扉を閉めてしまう。


 一〇一号室の扉の前にはカップケースの中でぐしゃぐしゃにつぶれてしまった、無残な姿のコンビニのショートケーキと薄汚れた札を握るあと少しで誕生日を迎える俺が、なんともいえない哀れな姿で取り残されることになった。






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