第19話
「ぎゃああああ!」
眠り底にいた俺の意識を引き上げたのは、明け方に窓から差し込む夏の日差しでも、ベランダから聞こえてくる鳥のさえずりでもなく、耳を貫くような叫び声だった。
十分な睡眠を得た後の自然な寝覚めではなく、無理矢理眠りから引き揚げられた不快な感覚と大音量のその声に俺は思わずその場で飛び起きた。いつもの癖で枕元に置いた携帯を探そうとするが見つからず、ようやく自分が寝転がっている場所が部屋の隅だということを思い出す。
「何、なんだよ!」
携帯がないため正確な時間はわからないが、窓の外がまだ暗いということは俺が眠りについてからそう時間はたっていないのだろう。何かが起きている、ということは分かるが、いかんせん部屋が暗いので現状が全く分からない。
手探りで何とか部屋の電気をつければ、部屋の中央で眠っていたはずの四人がまるで重なり合うように互いに抱き合って震えていた。
先ほど俺が女性陣にかけてやった布団も無残に部屋に端に投げ飛ばされてしまっている。だが、異様なのは紙のように血の気を失い、蒸し暑い部屋の中で震えている彼らの姿だった。
「お、おい……お前ら、大丈夫か?」
誰もが皆、目の焦点が合っていない。
「なあ、おいって……」
声をかけても誰も答えないため、俺は仕方なく男の肩を叩く。その感覚に男ははっと我に返ったように目を瞬かせ高と思うと、胸倉をつかむ勢いで俺に向かってきた。
「何も出ないんじゃなかったのかよ、この部屋!」
口端から白い泡を吹きながら喚き散らすその姿は、明らかに異常だ。
なだめるように何度も落ち着け、と声をかけても男の怒りを孕んだ叫びは止まらない。男の声に震えていたほかの三人もようやく我に返ったのか、のどから絞り出すような声を上げて泣き出した。
「もうやだ、帰る……無理、無理!」
「早く出よ、こんなとこ居たらヤバいって」
「お前……こんなところに住んでるの異常だよ、狂ってるんじゃねえの!」
ひたすらに喚きたてていた男も捨て台詞のようにそう言い放つと、乱暴に俺の体を壁に向かって押しのけた。せっかく書き写したノートを仕舞うこともせず、床に散らばっていた荷物だけを乱暴にかき集め四人は我先にと玄関へと向かっていく。
「お、おい。待てよ、何があったんだよ」
一体何が起きたのか俺だけがわからないまま、ここに置き去りにされてはたまらない。狭い玄関に全員が向かったせいで一斉に出ていくことがかなわず、最後尾で狼狽えている男の肩を俺は乱暴に掴んだ。
「……出たんだよ、全員見た。夢じゃない、見ろよ」
そういうと男は見せつけるように自分の腕を俺の前へと掲げて見せた。
半袖から覗く日に焼けた肌。その一か所に明らかに色の違う、鬱血した黒い痣のようなものが浮かんでいる。だが問題はその痣の形だ。ただの痣ではない、人の手……それも小さな子供が掴んだ跡のような手形がくっきりと浮かび上がっていたのだ。
慌てて顔を上げれば、玄関から縺れるようにして出ていった女性たちの足や腕にも同じような痣が浮かび上がっていた。
「……黒い、影が見えた」
幼い少女の声が、突然壊れたラジオのように脳裏に響いたのだという。足元から何かがはいずりあがってくるような感覚に、同じ声で目を覚ました四人は震え続けた。
そして彼らは見た、見てしまった。薄暗い闇の中、小さな人影がベランダを背にこちらを覗き込んでくるのを。
「出て行けって、怒ってた……駄目だ。俺、駄目だ」
早くここから逃げないと。
そういうと俺の手を振り払い、男は這いずるように扉から飛び出して行ってしまった。扉が乱暴に締まる音が響き、たった一人俺だけが玄関に残されてしまう。
(出た……って、りんちゃんが?)
彼らの体に浮かんでいた痣。
よほどの力を籠めなければ人の体にあそこまでくっきりとした鬱血の跡を残すことは難しいだろう。だが、ついていた手の跡は小さな子供のものだった。それこそ、小さな女の子の手のような……。
(あの子が、いるのか)
叫び声を上げて飛び出していった四人の言葉は、俺がこの家に越してくる前に某オカルト掲示板で目にしたものと全く同じだった。彼らがこの家に滞在してまだ数時間しかたっていない。だが、それにも関わらず彼らはあの子の姿を見たというのだ。
俺はまだ一度も見たことがないというのに。
(……落ち着け)
なら、どうして俺の前にだけあの子は現れないというのだろうか。
先ほどまで自分達が眠っていた和室に戻る気になれず、俺は玄関のすぐ横にある浴室へ続く脱衣所へと転がり込んだ。いまだに洗濯機を手に入れていないため、脱衣所といってもあるのは古びた鏡のついた洗面台だけだ。
今しがた起きたことが頭の中で整理できず混乱したままでは、今自分の身に何か起きても冷静に対処できる自信がない。こういう時こそいったん落ち着かなくては。
俺は震える手で蛇口をひねると、噴き出してきた水を両手ですくい顔にたたきつけた。夏の水はそこまで冷たいわけではないが、それでも顔に水がかかったことで少しだけ頭が冷えた。
(もしかしたら、あいつらが仕組んだ悪戯だったのかもしれないだろ)
そもそもノートを借りるためにこの家を訪れる、ということ自体が彼らの仕組んだ演技だった可能性すらある。
地域でも有名な事故物件に「ノートを借りる」という正当な理由で入り込み、電気を消したころを見計らい何かが起きたような演技をする。その一部始終を動画にでも収めて公開すれば、相当な再生数を稼げるはずだ。
そうだ、きっとそうに違いない。
そう自分を納得させようとするが、どうしても脳裏に残る彼らの怯えた表情が作り物だとは思えなかった。何せ彼らの顔は、今洗面所の鏡に映る自分の顔よりもずっとひどいものだった。
水垢がこびりついた鏡に映る自分の顔を眺めたその瞬間、ふと部屋の中の空気が下がったような気がした。夜明け前は一日の中で最も気温が下がる時間、というがそんな下がり方ではない。
冷房などないはずのこの家で、まるで冷蔵庫の中に体を押し込まれたようにひやりとした空気が洗面所の中に満ちたのだ。先ほどまで体にまとわりついていた、湿度を帯びた夏の気配が消えていく。代わりに部屋に満ちたのは、どこか黴臭い……古い衣服を仕舞う箪笥の中のような匂いだ。
ここにしまってあるのは棚に置いてある数枚の乾いたタオルだけ。そんな匂いがこの場所からするはずがない。
ぽた、ぽたと完全に締まり切っていなかった蛇口から落ちる水滴に合わせるように、頭上についていた薄暗い照明が息をするように点滅を始める。窓のない重い湿り気を帯びた部屋が、一瞬息をするように暗闇に包まれた。
「……っ」
そして再び明かりが灯った瞬間だった。
鏡の端、水垢がこびりついたその場所にあるはずがないものを俺は見た。細い、白い二本の足。靴下も靴も履いていない、まるで一度も日に当たったことがないとでもいうような白い細い足が二本映りこんでいたのだ。まるで廊下からこちらを伺う誰かが其処にいるかのように、二本の足はただ其処にたたずんでいるだけだ。
凍り付いてしまった俺の体は後ろを振り返ることはできず、視線も鏡の一点を見つめたまま声を出すことすらできない。まるで目が覚めているのに、体だけが金縛りにあってしまったような奇妙な感覚だ。
いまだ天井の電球は、動かない俺の呼吸と蛇口の水滴に応えるようにちかちかと点滅を繰り返している。数度照明が点滅する中、思いだしたように鏡の中の二本の足が動いた。まるでこの部屋を覗くことに飽きたのか、目的を達したのか。どちらにせよ、少女の足は奥の和室に向かってゆっくりと歩き出した。
その瞬間、視界の端にふわりと翻るものが見えた。
(……あのスカート)
視界の端に映ったのは、ふわりと広がった青色のスカートだった。空を閉じ込めたような美しい青いスカートに、俺は見覚えがあった。
『このスカート綺麗でしょ!お母さんがくれた宝物なの』
そうだ、あれはあの子の……りんちゃんの宝物だったスカートではないか。
家のベランダから窓を叩いて遊びに来るとき、大抵の場合りんちゃんはあの青いスカートを着ていた。彼女は母親からのプレゼントだと自慢げだったが、いつも派手な化粧と香水をつけていたあの子の母親が彼女のために用意したプレゼントではなかったのだろう。
ただ単純に娘が成長し、今まで来ていた服のサイズが合わなくなったから買い与えただけの安物のスカート。それでも、りんちゃんにとっては母親がくれた大切な宝物だったのだ。
初めてそのスカートを着てきた時、まるでお姫様のように俺の前でくるくると回りスカートを膨らませていたことを覚えている。
「……り、んちゃん?」
縫いつけられたように動かない口を無理矢理開き、俺は乾いたのどから絞り出すようにその名前を紡ぐ。鏡に映る2本の足は一度だけぴたりと足を止め、まるで俺から逃げるように慌てて走り去っていってしまった。
ぱたぱた、と小さな音を立てて音が遠ざかっていく。
それはあの日、俺とあの子がかくれんぼをした最後の日。目を閉じた暗闇の中で数字を数える俺が聞いたあの音とよく似ていた。
音が消えていった先は、おそらくあの和室だ。
音が完全に消えた瞬間、照明の点滅が終わり部屋の中に光が戻る。
先ほどまで冷え切っていた空気も薄れ、夏の蒸し暑さが思い出したように一気に戻ってきた。
「……りんちゃん」
応える声がないのは分かっている。だが、どうしても俺はその名前を呟かずにはいられなかった。
やはりあの子は、あの日と姿のまま この家の中にいるのだから。
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