第18話
「……はあ」
外に出れば多少頭が冷えるかと思ったが、七月の初旬、それも深夜だというのに外の風は生ぬるい。最近初夏とは思えないほど暑い日が続いているうえに、夕立や雨が全く降っていないので昼間の熱が夜になっても下がらないのだ。
年々熱くなり続ける日本の気候に辟易しながら、俺は今日何度もめか分からないため息を漏らした。
「すごい大きい溜息。そんなに溜息つくと幸せが逃げるぞ」
気を付けないと、と笑う声に横を向けば、見知った顔……奥村先輩がこちらに首をのぞかせていた。やはり彼女もこの夏の暑さにだいぶ参っているのか、カーディガンも羽織らないタンクトップ姿という夏らしい、多少目のやり場に困るラフな格好でこちらに手を振ってくる。
「あ、ども……今日も暑いっすね」
無難な話題をふれば、その通りだというように奥村先輩は手で自分の顔をわざとらしくぱたぱたと仰いで見せた。
「本当に暑いよね!あ、そうだ。ため息つくと幸せが逃げるだけじゃなくて、二酸化炭素の排出が増えてただでさえ暑い夏がさらに温暖化しちゃう」
気を付けてくれないと、気温がもっとあがったらどう責任とってくれるの?と奥村先輩は至極真面目な顔で言い放つ。まったく容姿だけでなく、こういう話の方向性も神永先輩とそっくりだ。
普段の俺なら奥村先輩の言葉に笑い声をあげられるのだが、今日はそんな気分にはなれない。先ほど部屋の中で無意識の悪意を孕んで放たれた言葉が、棘のように刺さってじわじわと痛みを広げ続けていた。
「あれ、なんか元気ないね?どうした、もうすぐテストだけど、もしかして勉強やばいのか~?」
「やばいのはどちらかというと奥村先輩じゃないんですか。俺は全講義無欠席の優等生ですけど、奥村先輩出席もぎりぎりだって神永先輩いってましたよ。学年も専攻も違うんで、ノートとか貸してあげられませんからね」
「うっわ、手厳しいー……。あーあ、間宮君が同い年だったら色々楽しかっただろうなあ」
ぽつりとつぶやいた言葉に、俺も無意識に頷いてしまっていた。
もし奥村先輩が同じ学年だったら、少しは大学生活も変わっていたのだろうか。学食でほかの生徒達と同じように雑談をしながら昼食を食べて笑ったり、席を並べて講義を受けることができたのだろうか。
そんなありもしない、都合の良い空想を抱いてしまう。
「そういえば、今日はずいぶんにぎやかだね?お客さん?」
「あ、すみません……ノート見せてほしいっていう奴らが来てて。煩かったですよね」
「いいよいいよ、一日くらい。あ、でももしかして反対側のお隣さんに怒られた?」
「あ、いや。如月さんは今日は留守みたいで……いたら怒られてたと思うんで助かりました」
そこまで口にして、俺はふと先ほど部屋で聞いた会話を思い出した。
「そうだ、さっき知ったんですけど如月さんも立池大学の生徒だったですね」
「ああ、そうみたいだね。このアパートにも結構前から住んでるし。それにしてもこんなアパートにわざわざ住むなんて、変わってるよねえ」
あ、それ言ったら私達もか。
と奥村先輩はふざけて笑って見せた。その言葉に俺は何と答えたらよいかわからず、曖昧な笑いを返す。そういえば、奥村先輩は初めて会ったときにこのアパートを選んだ理由を「ほしいものがあるから」だと言っていた。
「奥村先輩はほしいものがあるって言ってましたよね。そろそろ買えそうなんですか?」
「うーん……どうかなあ。手が届きそうなところまでは来てるんだけどねえ……まだ難しいかな」
「応援、してますよ」
一体彼女が欲しいものがなにかはわからない。だが焦がれるような横顔を見る限り、本当に心から欲しくてたまらないものなのだろう。学業をおろそかにするのは頂けないが、それでも何かを求め続ける彼女の事は応援したくなってしまう。だからこそ、無意識に出た言葉だった。
「本当に?間宮君がそう言ってくれるのすごくうれしい!」
花が咲いたように笑うその姿に、先程までささくれていた心が少しだけ癒えたような気がした。純粋に笑うその姿があまりにもまぶしすぎて、俺は夜だというのに思わず目を細めた。
だが、彼女は俺の顔に残る僅かな影を見逃さなかったのだろう。精一杯体を伸ばし、まるで風邪を引いた子供を心配するように顔を覗き込んでくる。
「ねえ、本当にどうしたの?今日ずっと元気ないでしょ。勉強のしすぎ?もしかして風邪ひいた?それとも誰かに何か言われたの?」
最後の言葉に、無意識に体が強張ってしまう。俺の体に走ったその緊張を、鈍いようで誰よりも鋭い彼女は決して見逃さなかった。
「……誰、誰にいじめられたの?誰が間宮君を傷つけたの?」
耳に届くのは普段よりも低い声だ。
よく知っているはずの声なのに、知らない誰かのようにも聞こえるその声はひどく冷たい音をしていた。いつもなら顔に血が上るほど近い距離で話しかけられているというのに、うまく声を出すことができず、ただ沈黙を守ることしかできなかった。
「……教えてくれないの」
先ほどまで楽し気に笑っていた目が、まるでガラスのような冷たさで今はこちらを覗き込んでくる。その視線の冷たさに、俺の背中を冷たい汗が一筋流れ落ちていく。
(……寒い)
先ほどまでひどい蒸し暑さだったというのに、なぜか歯の根が合わないのだ。気温は変わっていないはずなのに、なぜか体中が冷気に包まれたように寒くて仕方がない。
体に力を入れていないとカチカチと歯が無様な音を立ててしまいそうで、俺は必死に四肢に力を籠め続けた。
「教えてくれないなら、仕方がないね」
それだけ言うと、あきらめたように奥村先輩の顔が離れていく。
鼻先に漂っていた薄い花のような香りが離れると、ようやく体に体温が戻ってきたような気がした。錆びた機械のように緩慢な動きで顔をあげれば、目の前にあったのはいつもと同じ、柔らかな笑顔を浮かべた奥村先輩の姿だった。
(……さっきのは、きっと気のせいだ)
温度を感じない冷たい声も、蛇のようにこちらを覗き込んできた目も、きっと自分の後ろめたい心が見せた幻だったのだ。
「私じゃ頼りないかもしれないけど、何かあったらいつでも相談してね」
そう言って笑う奥村先輩の姿は、間違いなく自分を心配するものだった。だが、それでも先ほど垣間見たあの表情が、どうしても脳裏にこびりついて離れない。
普段であれば名残惜しく感じるこの時間だが、今日はどうしてもこれ以上奥村先輩と話を続けるつもりにはなれなかった。
「じゃあ、俺も勉強しないといけないんで」
これ以上何か詮索されないだろうか、と少しばかり身構えるが、奥村先輩は少し寂し気な表情を浮かべゆっくりと手を振ってみせた。その姿に、無意識に冷たい態度を取ってしまったのではないかと僅かに心が痛む。
「私、何があっても間宮くんの味方だからね」
だから元気を出してね、と背中に向かって届いた声に、俺は一度だけ振り返り小さく頭を下げた。
◇◇◇
電気がついたままの部屋に戻れば、畳の上には例の四人がなんとも情けない恰好で転がっていた。
机の上には写し終えたノートの山と、空になった酒の缶やつまみの袋が散乱している。まだ試験も始まっていないというのに、ノートを書き上げた達成感だけで眠ってしまったのだろう。部屋の空気がひどく酒臭いが、どうしても窓を開けるつもりにはなれなかった。
「そろそろ電気消すぞ」
どうせ返事がないことはわかっている。
だが、さすがに年頃の女性達を無防備に転がしておくことはできない。俺は自分用の薄い掛け布団を押し入れから取り出すと、仲睦まじく眠る二人の女性の上へかぶせてやった。
本当は部屋を分けた方がいいのだろうが、眠ってしまっている今これが俺にできる精一杯だ。
(……俺も寝るか)
掛け布団もない状況だが、何せこの蒸し暑さだ。布団なしの雑魚寝でも、冷房のないこの部屋では試験前に風邪をひくようなことはないだろう。家主に変わり和室の中央で眠っている四人を避け、俺は壁際に体を丸めて横たわる。
電気の消えた薄暗い部屋に、ベランダから青白い月の光が差し込んできた。
りんちゃんはこの部屋で死んだのだ。わかってはいたが、改めてその事実が心の中に影を落とした。
いまだに姿どころか影さえ見せないということは、あの子はやはりもうここにはいないのだろうか。
恨みも無念も残していないというのならそれに越したことはない。だが、年を追うごとに少しずつ面影が薄れていくあの子に、お別れを言えなかったことがやはり心残りだった。
「りんちゃん……」
無意識に囁いてしまったその声を聴きながら、俺は眠りの中へと落ちていった。
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