第17話
「へえ、古いけど中は思ったより広いんだな。これで家賃一万五千円は安いわ」
「やばい、なんかおばあちゃんちと同じ匂いがするんだけど」
「わかる、なんか着物……っていうか古い箪笥のにおい?」
「うお、でもこっちの和室は雰囲気あるぜ!この染みとか超こええ!」
仮にも目の前に家主がいるというのに、ずいぶん好き勝手なことを言ってくれるものだ。
きっと彼らは遠慮という言葉を知らないのだろう。さっさと上がり込んだ四人は勉強する気配など全く見せず、部屋のいたるところに勝手に携帯のカメラを向けては連写を続けている。
私物が映り込むのもお構いなしの振る舞いに、多少は見過ごしていた俺も「いい加減にしてくれ」と声を荒げてしまった。
この様子を見る限り、彼らの第一の目的は間違いなくノートの無心だが、もう一つの目的は学校中で噂になっている事故物件がどんなものなのか見てみよう、そしてできれば写真か動画に収めようというものだったのだろう。彼らからしてみれば心霊スポット観光に近い感覚なのだ。
実際の事故物件を借りて一人で住むことなど絶対に御免だが、誰かが借りているところに数時間滞在するくらいなら害はないだろうと考えたのだ。まあ、間違いなく彼らの中にそんな勇気が湧いたのは、「この事故物件に数か月住んでいる俺の身に、何一つおかしなことが起きていない」というのが主な要因だろう。
どんな恐ろしい噂や怪談も実際そこに住んだり、訪れた人間に何も起きなければ「なんだ、その程度か」という落胆と安堵が起こるものだ。
とはいえ、まだ根強い噂の残るあの心霊アパートに数時間でも滞在した、となればサークル内でも話題になるのは必須だった。危険がないことがわかり、かつた大した苦労もなく注目が集められるとなれば彼らがこの部屋を訪れた理由も納得できるというものだ。
「言っとくけど、ノートは貸し出しはしないからな。俺だって勉強しなきゃいけないんだから。ここで写していけよ」
これが一人暮らし用の狭いアパートの一室であれば、五人も集まれば窮屈でたまらないが、そこは多少なりとも広い1LDKなので余裕がある。自分の勉強用にと中古家具やで格安で買った平置きの机に、数か月分のノートの山を積み上げればわざとらしい歓声が四人分部屋の中に響いた。
「おい、あんまり煩くするなよ。俺の隣、ちょっとめんどくさそうな奴が住んでるんだから。なんかあった時に怒られるの、俺なんだからな」
「ああ、隣って如月先輩だろ?有名だもんな、あの人」
まさかの当然知っている、とでもいうかのような予想外の返事に俺は目を見開いた。
「先輩って、あの人……立池大学の生徒なのか。ってか、有名ってどういうことだよ」
「この心霊アパートに前から住んでる超絶変人って学校中の話題だぞ。今年はこの部屋に住んでるお前がいたから影がちょっと薄くなってるみたいだけど」
「なんかすごいオカルトマニアなんでしょ?一回学校で見た友達が、なんか鞄の中にヤバそうなお札とかが入ってたって聞いた」
「あ、私も聞いたことある。心霊写真と曰くつきのものを集めてるって聞いたよ」
その話を聞いて、俺は一度だけ梅雨時期に大学のキャンバスの中で見た青白い顔を思い出していた。今にも穴が開きそうな透明なビニール傘をさし、不健康に背中の曲がった長身の青年。こちらに気付いた時、黒い絵の具をそのまま塗りたくったような光のない目がこちらを睨みつけるように見つめていた。
何故あの男がこんな場所に、とあの時は思ったが声を掛けようとした次の瞬間には如月の姿はまるで最初からそこにいなかったように消えてしまっていた。
あの時は夢でも見たのではないかと思ったが、どうやら夢でも幻覚でもなく、彼もまたれっきとした立池大学の生徒だったというわけだ。
「私も見たことあるけど、結構かっこよくなかった?」
「げえ、俺も見たことあるけど陰キャの濃縮還元みたいな恰好してたぜ?あんなのがいいのかよ」
「馬鹿ね、あれは磨けば光る素材だって。女の直感が告げてるんだから」
男性陣の言葉を、女性陣は口を揃えて否定する。
同性のよしみで男性陣を援護するわけではないが、やはり記憶にある如月の姿は容姿端麗の部類には入らないだろう。だが女性が好きな俳優も、所謂メジャーどころは容姿端麗なアイドルが多いが、個性的な俳優が圧倒的人気を誇る場合もある。きっとあのケースなのだろうと自分を無理矢理納得させれば、同じように男二人も首を斜めに傾げながら「そういうもんなのか?」と小さな声で呟いていた。
そんな他愛もない会話をしながら、徐々に夜が更けていく。
講義一冊のノート程度なら一時間もあれば写し終わるが、それが複数となると中々時間がかかる。おそらく彼らが酒や食料を持ち込んだところを見ると、すくなくとも一晩かけてこの部屋に居座るつもりだったのだろう。
最初は古びた冷蔵庫の音が部屋に響くたびに、何か出たのではないかと僅かな緊張をにじませていた彼らも時計の針が零を回るころになると完全に緊張の糸は緩み切っていた。
「しっかし事故物件に住んでて、となりはオカルトマニアの先輩とか。設定盛りすぎだろ。本当に何もでないのかよ、ここ」
発泡酒の缶を片手にノートを写す手を止めないまま、男の一人に聞かれ俺はこの数か月の生活を思い返してみる。確実に未成年である男が飲酒をしている件は、面倒ごとを避けるため見て見ぬふりをしておいた。
だがどれだけ振り返ってみても、この部屋の中でおかしな現象が起きたという記憶は一つもない。
「まじで、ラップ音とか、なんかそういう変な音とかも聞いたことないのか?」
「変な音……は、たまに隣の部屋から深夜お経みたいな音が聞こえてくるけど、たぶんあれは普通に如月先輩が音楽代わりに聴いてるやつ……だと思う」
「如月先輩、まじやべえ!」
何がそこまでツボに入ったのか、げらげらと男は笑い転げた。
笑い話に聞こえるが、隣室から突然お経が聞こえだした時の俺の気持ちがわかるだろうか。深夜の暗い部屋で初めてその音が聞こえだしたときは、ついに何かが起こるのかと身構えてしまった。だが、よくよく耳を澄ましてみるとお経の音は自分の部屋からではなく、一〇一号室の壁の向こう側から聞こえてくる。
その上、抑揚のないお経の声が突然止まったかと思うと、某通販サイトのカードの宣伝が同じ音量で十数秒続いたのだ。
つまり、このお経の音は怪現象でもなんでもなく、隣室の住人が深夜に某動画サイトでBGM代わりに流していただけ、ということになる。当時は肩透かしを食らった気分になったものだが、後々心霊現象よりも深夜に一人読経の動画を流している奴も相当ヤバいという結論に辿り着いたのだ。あの日以降、時折隣の部屋からお経が聞こえることがあるが、完全に心を無にして無視を決め込んでいる。
「そういえば、俺たちが今いるこの部屋があの殺人事件があった現場なんだろ」
最後のノートを写し終えたのか、満足げに畳にごろりと横になった男は俺に向かって声をかけてきた。かつての事件の当事者として声をかけられているわけではない。あくまで今のこの家に住んでいる住人として問われているだけだと分かっていても、体に緊張が走ってしまう。
「え、あの女の子が殺されたっていう部屋、ここなの?」
先に作業を終えていた女性の一人が、突然顔をこわばらせた。
事故物件、とは聞いていてが今自分が腰を下ろしているこの和室が、幼い少女が殺された現場だとは思わなかったのだろう。もじもじと少し居心地悪そうにしているところをみると、半分興味本位でこの家を訪れたが実際自分が座っているこの場所で誰かが死んだという事実を今さら実感したのだろう。
「たしか、この部屋に隣に家に住んでた子なんだよね。どうしてこの家で殺されたんだろ」
「確かこの家で遊んでたところを、家庭内暴力をふるってたこの家の父親に見つかった……ってことだったみたいだけどな」
「女の子だけ殺されたってことは、一緒に遊んでたこの家の子は?逃げたってこと?」
「殺されたのが一人ってことは家にいなかったんだろ、それか逃げたかだな」
「女の子だけ置いて逃げるってひどくない、可哀そう」
「まあ、殺人するような親の血引いてるならその子供も糞なんじゃねえの?俺も知らねえけど」
全員作業を終えたのか、もしくはノートを書き写す作業に飽きたのか。すっかり手をとめ、持参した発泡酒に口をつけ適当な話で盛り上がり始める。根も葉もないとは言わないが、目の前に当事者の一人がいることを知らずに騒ぎ立てられる話を聞き続けることはできず、俺は静かに立ち上がった。
酔いが回りはじめ注意力が散漫になっているのか、俺が立ち上がったことに誰も気づく気配がない。時計を見れば、すでに深夜一時を回っている。この時間になっても帰る気配がないということは、全員このまま夜が明けるまでこの家に居座るつもりなのだろう。
多少広い、とはいえ1LDKの古いアパートだ。部屋を変えたとしてもがやがやと騒ぎ立てる声はどうしても聞こえてきてしまう。こんな時隣の如月家から「うるさい」と壁を叩く音でも響けば多少静かになるのかもしれないが、こんな日に限って隣家は静まり返ったままだ。
「俺、ちょっと外出てるから」
部屋の中で何やら「誰それから聞いた」という怪談話で盛り上がる四人に小声で声をかけるが、誰一人家主である俺のことなど気にも留めていないのか、戻ってくる返事はなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます