第16話
最初に声をかけられたのは学食で一人具が何も入っていない素うどんをすすっていた時の事だった。
普段昼時に学食で食事をすると、俺の周りはどんなに食堂が混んでいても不自然な空席ができてしまう。わざわざ俺のそばに座りたくないということなのだろうが、季節も梅雨から夏に移り変わることにはあまりに当たり前のことになりすぎて何も感じなくなってしまっていた。
だからこそ、突然目の前の椅子に誰かが座った時、無条件に俺はまた神永先輩がいつものちょっかいを掛けにやってきたのだと思ったのだ。
「なんですか、神永先輩。また俺に何か……」
「え、神永先輩って誰?」
予想外の低い声に、俺は思わず顔を上げた。耳に届いたその声は、女性の声ではなく明らかに男の声だったからだ。視線を上げた先にいたのはやはり神永先輩ではなかった。
茶色、と呼ぶには明るすぎるベージュカラーの髪色をした男が一人、俺の前の椅子に座っていた。昼時だというのに学食のトレーを持っていないところを見ると、食事をするためにこの席に座ったのではないのだろう。
昼時とは言え、一人席くらい探せばほかにも空いている場所はある。それにもかかわらず、わざわざこの席に座ったということは俺に何かしらの用があるということだ。
「……何?」
神永先輩を除き、学校の人目がある場所で俺に話しかけてくる人間はまずいない。用事があるなら手短に済ませてほしい、そんな空気をにじませたのだが彼には全く伝わっていなかったようだ。
「間宮さ、俺の事覚えてる?」
その言葉に、俺は前に座る男の顔に改めて視線を走らせた。大学の中にまず友人は存在しないが、かつての俺の知人の中にもこんな派手な髪色をした男はいなかったはずだ。
完全に全く記憶に残っていない、という顔で固まっていたのだろう。男は少し苦笑いを浮かべた後、「ガイダンスの後、少しだけど話をしただろ」と続けた。その言葉に、ようやく俺は合点がいった。ずいぶん様変わりしてしまっていたせいで気づかなかったが、彼は入学当初に自分に話しかけてきた男子学生の一人ではないか。
あの頃はまだ髪色も黒く、田舎から出てきたばかりの学生といった空気が抜けていなかったが、今では完全に垢抜けた風貌に変わっていた。
「なあ、同じ専攻のよしみで頼みがあるんだけど……確か俺とお前、とってる授業ほぼ被ってたはずなんだよ。ノート貸してくれないかな」
頼むよ、と男はわざとらしく両手を合わせて拝み倒してくる。
同じ授業を取っているにもかかわらず、道理で彼の姿に覚えがなかったはずだ。おそらく最初の数回以降、ほとんど講義に出ていなかったのだろう。遊び呆けて早数か月、テスト前になってようやく自分の置かれた現状に危機感を覚えているというわけだ。
「俺とお前の仲だろ、間宮。頼むよ」
一体どんな仲だというのだろう。少なくとも、五月の大型連休前の彼は俺の事をほかの生徒達と同様に「口をきいただけでも呪われる」と避けていたはずだ。
だが、彼の気持ちもわからないではない。
本来一週間住むことができない、と噂されていた事故物件に俺はすでに三か月以上住み続けている。それだけで噂の前提が崩れ始めているのだ。地方から出てきた生徒たちの中では「霊が出るという話自体が、実はガセネタだったのではないか」という新たな噂も立ち始めているという。
だが、有名な事故物件というだけあり、実際大学の卒業生たちの中に興味本位で物件を借り、恐ろしい目に逢ったことがあるという実話がいくつも残っているのもまた事実だった。
目の前にいる彼も、最初は俺に話しかけるつもりなど毛頭なかったのだろう。だが課題の提出期限が近くなり、自分の状況が思ったよりも切迫していることに気が付いた。もしこのままいけば、確実に単位を落とし未来の留年が確約されてしまう。
もし入学して一年にして留年の可能性が濃厚ともなれば、親の逆鱗に触れるのは確実だった。
彼の中で件の事故物件に住んでいる俺と関わる恐怖と、親の逆鱗に触れる恐怖の天秤がかけられ、親に叱られる恐怖の方が勝ったのだろう。
「……貸してもいいけど」
俺の言葉に、男は天の救いを得たというような表情を浮かべてみせた。
貸しても良い、という言葉に嘘はない。だが講義に殆ど出席もせず、俺に話しかけても何も起こらないのではないかという頃合いに声をかけてきた男の保身具合に、苛立ちを覚えたのも事実だ。
(なんのリスクもなく、世間を渡っていけると思うなよ)
キャンバスの中で散々な大学生活を送っている俺が、少しばかり意地の悪い答えを返してやろう、そんなことを考えてしまったのも仕方がないことだろう。
「貸しても良いけど、俺の家に取りに来る度胸があればな」
その言葉に、男の顔から明らかに血の気が引いていく。やはり話しかける勇気はあるが、あの部屋に自ら足を踏み入れる覚悟も勇気もないのだろう。
そう思っていたのだが。
どうやら現実はそう甘くはなかったようだ。
◇◇◇
こうして新たな仲間を引き連れて、彼は家にまでやってきてしまった。
こんな時住所を教えずとも「件の事故物件」というあまりにも有名な場所に住んでいるせいで、すぐにたどり着けてしまうのだ。本当は追い返したいところだが、家に来る度胸があればノートを貸してやると言ってしまったのは紛れもなく自分自身だ。
過去の自分へ脳内で恨み言を言いながら、俺は玄関の前に集まった四人にありきたりな言葉を投げかけた。
「何にもないけど、それでいいなら上がれよ」
「「お邪魔しまーす」」
その言葉に返された言葉も、また何の変哲もないお気楽なものだった。
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