第20話
じわじわ、じわじわ。
窓の外では昨月よりも激しく、まるで雨のように蝉の声が降り続けている。耳に触るほど煩く夏の声が響いているというのに、壁一枚隔てた家の中ではすべての音が遠く感じてしまう。
すでに日は傾き始めているが、それでも八月初めの昼は長い。決して太陽の光が弱いわけではないのに不思議と俺の目に映る部屋の中は夕方のように薄暗く、ひどく陰って見えた。
(そういえば、あの日も蝉が鳴いていたな)
幼い俺が母親に抱かれ、家から連れ出されたあの日。
この部屋でりんちゃんとかくれんぼをした最後の日。あの日も窓の外から今と同じ、いや、今よりも激しい夏の蝉の声が響いていた。目をつぶり数字を数えながら、闇に響くじわじわというあの声を聴いていた。
あれは夏の日の事だったのか、と改めて俺は思い出す。
自己防衛、というのだろう。俺は幼いころこの家で暮らした時の記憶の多くに蓋をしていた。思い出そうとすると自分に振り下ろされる拳や怒声、そして体中に走る鈍い痛みを思い出してしまうからだ。
(……痛い)
こうして過去を思い出そうとするだけで、怪我などとうの昔に治りきっているはずなのに父親に殴られた手や足が鈍く痛むような気がしてくる。「痛い、痛い。ごめんなさい、父さん、ごめんなさい」と必死に泣きながら訴える記憶の中の幼い自分に、「これは過去の痛みだ」と言い聞かせ俺は必死で首を振った。
「……りんちゃん」
記憶の中の少女に助けを求めるように、俺は和室の畳に視線を落としたままぽつりとその名を呟いた。記憶のなかにある、青いスカートを着た女の子。ふわりと膨らんだスカートと、スカートの裾から覗くひどくアンバランスに痩せすぎた細い足を覚えている。
あの子と遊んだこの部屋の記憶だけが、俺にとってこの家で唯一幸せな時間だった。だが、その幸せな記憶もこの場所で起きた凄惨な事件により決して消えない傷として俺の中に残ってしまった。
もしあの事この場所で、この部屋で俺と遊んでいなければ。きっとあの子は、りんちゃんは命を落とすことなどなかったのだろうから。
「りんちゃん、いるんだろ」
俺の家に押しかけてきた四人が彼女の影を見たと叫び逃げ出したあの日から、俺は毎日こうして家に籠り彼女の名前を呼び続けている。
だが、あの日以来、彼女が俺の前に姿を現したことは一度もない。姿や影どころか、物音ひとつせず、相変わらずただ平穏な日々が過ぎていくだけだ。
(……あの後、すぐ夏休みになってよかった)
案の定、あの四人が逃げ帰った次の日から、大学で俺に向けられる視線は今まで以上に散々なものになった。おそらく逃げ出した四人がサークルを筆頭に、友人達や先輩たちに自分がどれだけ恐ろしい目にあったかを大げさな脚色付きで話して回ったのだろう。
基本怪談というものは「学校の先輩の友達が、友達から聞いたらしいんだけど」というひどく遠い所で起きた出来事として語られることがほとんだ。だからこそ、どれだけ恐ろしい話も自分には絶対関係のない物語として楽しむことができる。
だがそれが、身近な誰かが実際に恐ろしい体験をしたという生々しいものとなれば話は別だ。怪談は自分の身の安全が保障されているからこそ、噂話として楽しむことができる。だが、その安全を脅かす存在がこの大学の中にいるのだ。
まあ、つまりそれは俺自身なのだが。
だからこそ、キャンバスの中を歩くだけで俺は今まで以上に冷たい視線を方々から向けられることになった。今まで向けられる視線は「ヤバい事故物件に住んでいる、ヤバい奴がいる」という好奇のものがほとんどだったが、今では「絶対に近づいてはいけない存在」という恐怖と嫌悪をにじませる視線ばかりだ。
実際、あの日から学食や図書館に足を運べば、テスト直前で殆ど席が埋まっているにも関わらず俺がいることに気付いた瞬間、誰もが黙って席を立つほどの有様だった。どうやら噂が拡散する間に「事故物件に平気で暮らせているのは、間宮悟が呪われているから。だから彼のそばにいるだけで呪われる」という尾ひれがついたらしい。どうやら俺が過去の事件の関係者だとは露見していないようだが、噂の尾ひれが完全に的外れではないのも恐ろしいところだ。
まあ、仕方がないことだ。噂の怪談の震源地がいれば、身の安全のために避けるのが普通の人間だろう。だが、流石に大学中から向けられる冷たい視線を浴び続ければ、いくら俺でも嫌になるというものだ。
だからこそ、あの事件が起きたのが試験のすぐ直前だったのが救いだった。大学では試験が終わればすぐに長い夏休みに入る。二か月程度の夏季休暇だが、それでもこうして誰とも関わらずにいられることは唯一の救いだった。
(……りんちゃんに、会わないと)
与えられた夏休みの間に、自分の中にある過去と、りんちゃんと別れを告げる。それが俺がこの夏自分に課した命題だった。
この家に縛り付けられているあの子を自由にし、過去と決別し俺はこの家を去る。俺が大学で噂の的になっているのはこの家で暮らしていることが一番の原因だ。この家を離れれば、そう長くない間に噂は沈静化するだろう。
だが、この家にいるあの子を一人残したまま、あの日と同じように家を去ることは今の俺にはできなかった。
そう思って夏休みはできるだけこの家に、実際には鏡の中で見た彼女の足が消えていった和室にいるようにしているのだが。あの日以来、彼女は姿を見せるどころか気配や音と立てることもなく、家の中は何処よりも静かで平穏な場所になってしまっていた。
だが、今でも彼女がここにいるのは確かなのだ。最初は神永先輩がいうように、自分に霊感が全くないせいでりんちゃんを視ることができないのでは、と考えたことがあった。だがあの日、鏡越しではあるが俺は確かにあの子の姿を見た。
そしてあの日家に来た四人は、この家にあった噂をなぞるように「りんちゃん」の姿を見たうえで、彼女の敵意をその身に受けたのだ。だが、いまだに俺の身には何もない。明らかに不自然だ。
(りんちゃんは、俺に会いたくないのか)
あの日彼女を一人置き去りにした俺を憎み会いたくない、というならその気持ちもわかる。だがそれなら俺に対する感情は「許せない」という怒りや悲しみのはずだ。この家から出ていけ、というならばその怒りを真っ先に向けられるべき俺が、何も起こらないまま平然とこの家で平穏な時を過ごせるはずがない。
鏡越しに見た細い足も、まるで俺に見つかる前に逃げ出したようにも見えた。
何故りんちゃんが自分から逃げるのかは分からない。だが、彼女がこの家に残る理由を知るためには、まず彼女に会うところから始めなければいけない。
(霊に会いたいっていってもなあ……)
「霊を避ける」ためにお祓いや祈祷をしてもらうという話は聞くが、はたして「霊に会いたい」と願うことはあるのだろうが。青森の恐山などで、亡くなった親族の話を聞くために霊を自らの体に降ろすイタコという存在もいるというが、今の自分にはあまりピンとこない。
どのみち、霊を祓うにしても、霊に会うにしても今の自分には信用できる霊能者の知り合いなど皆無だった。
(こういうのって誰に相談したらいいんだ?神社も寺も違うだろうし)
かといってオカルト関係に詳しい知人も存在しない。とそこまで思考を巡らせた矢先だった。ばたん、と壁越しに扉が閉まる音が響く。
隣室の一〇一号室の住人、如月玲が帰宅したのだろう。
「あ……」
薄暗い部屋に陰気な男が戻る姿を想像し、俺の口からは思わず声が漏れていた。灯台下暗し、とはまさに事の事ではないか。
『お前の隣に住んでるの、あの如月先輩だろ。オカルトマニアの』
あの日家に来た男は、確かにそういっていたではないか。
正直脳裏に浮かぶ如月の姿に頼ることは一瞬戸惑われたが、ほかに頼れるような相手も思い浮かばない。藁をもつかむ思いではあるが、このまま無為に時間を浪費し続けるよりはましだろう。もし追い払われるようであれば、改めて別の道を模索すればいい。
「……よし」
少しずつ日が傾き始める中、俺は意気込むように自分の頬を叩くとゆっくりと立ち上がった。
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