第6話
こんな事を言って良いか分からないが、このボロアパートには先程別れたばかりの如月のような社会不適合者のような人間か、自分のような貧乏男子学生(とはいえ、俺にはこの場所を選んだ真っ当な理由があるのだが)がふさわしい。
彼女はどちらかといえば、しっかりとオートロックがついた今どきの女性たちが好むモダンな部屋に住む方が余程似合っている。
そんなこちらの想いを見透かしたのか、奥村と名乗った女性は困ったように眉を寄せると一〇二号室を指さして微笑んだ。
「間宮君は、知っててその部屋選んだんだよね?」
「え、っと……はい。大丈夫です、分かって借りてるので」
そう返せば、「ふぅん」と興味深げに漏らされた声と共に、好奇の色を含んだ視線がこちらへと向けられる
「奥村さんこそ、何でこんなアパートを借りたんですか?」
そこまで聞いて俺は思わず口を閉ざす。
隣室は心霊現象が起きる事故物件。家もぼろく、すでに入居している一〇一号室の住人はアレだ。普通の女性ならこんな場所は一人暮らしの場所に選ばないだろう。
だが、何故彼女がこの部屋を借りたのか問いただすのは流石に初対面の女性に対する質問にしては失礼すぎる。しかもこんなアパートと口走ってしまったが、彼女は既に此処に住んでいる身なのだ。もしかすると彼女にも自分と同じように何か深い理由があるかもしれないではないか。そこれこそ、金銭的な問題であえて破格の値段のこのアパートを選んでいるとう可能性だってある。
気分を害してしまったかもしれない、と恐る恐る見上げれば彼女は何も気にしていないとでもいう様に言い放った。
「ああ、いいよいいよ。気にしないで。気になるのは当たり前だもん」
まるで何も気にしていないというように、彼女は笑う。
「まあ、くだらない理由なんだけどさ。ちょっと欲しいものがあって、そのために切り詰められるところは切り詰めなきゃいけないわけさ」
まったく、物価が高騰しつづける現代社会はなんとも私たちに優しくないものよね、心底困ったように首をすくめて見せた。確かに食費や光熱費は節約できたとしても限界があり、微々たるものだ。だが、ひと月の中で最大の出費となる家賃を大幅に減らせることが出来れば、かなりの節約になる。
「まあ、私みたいなのが一人暮らししたところで危ないことなんて何もないしね」
「そ、そんなことないですよ!」
自虐的に笑った彼女に、俺は盛大に首を横に振った。
「ふふ、ありがと。でも、実は私も本当は一〇二号室が良かったんだけど」
入れなかったからここを借りたんだよ、と何事でもないかのように彼女は片目をつぶって微笑んで見せた。おそらく口ぶりから察するに、借りようとしたときに興味本位で契約をした誰かが一〇二号室を借りてしまっていたのだろう。
屈託なく笑うその姿に俺は笑顔で固まったまま確信する。容姿こそ可愛らしい女性だが、彼女もまたこのアパートに暮らす変わり者の住人である、と。
さて何と言葉を返したものか悩みつつ、俺は話題の切り替えに最適なアイテムを手に持っていたことを思い出し、おずおずと紙袋を差し出した。
「あの、これ良かったら」
「お、少年。これもしかして、スヴニールのマドレーヌでは?」
『スヴニール』という洒落た店名がプリントされた紙袋を受け取とった彼女の口から嬉しそうな声が漏れる。
「嬉しい、私昔からあそこのお菓子大好きなの」
大抵の女性がそうであるように、多少変わった性格の彼女もまた甘いものには目が無かったようだ。先ほど如月に紙袋を奪い取られた時は「こんなもの買わなければ良かった」と毒を吐きかけたが、今は昨日の自分に賞賛を贈りたい。
先ほどほぼ無言で紙袋を奪い取って行ったあの男は知らないだろうが、俺が選んだこの菓子はこの辺りでは長い歴史を誇る知る人ぞ知る有名洋菓子店の一品なのだ。
俺がこれから通う大学キャンパスのすぐ側にあるこの洋菓子店は、老夫婦が営んでいる小さな店ため、雑誌に取り上げられることやSNSで話題になることは殆どない。だが、立池大学に通う生徒の多くがその味に惚れこみ通い詰めているという。
「あれ、奥村さんってもしかして立池大学ですか?」
つまり、この店を知っているということは彼女もまた自分と同じ大学に通う一人なのだろうか。
「実は、俺も今年入学するんです」
そう続ければ、目の前の女性はまるで花が咲いたように顔を綻ばせた。
「大当たり、そうだよ……って、この辺りに住んでる若者は大抵立大生だけどね。だから私の事は奥村先輩って呼んでくれて構わないよ。もしくはすずねって呼んでくれてもいいけど」
流石に出会ったばかりの年上の女性を呼び捨てにはできない、と俺は慌てて首を横に振る。成程、先輩ということは今年の春からの新一年生ではなく少なくとも一つ以上年上というわけだ。
「えっと、俺経済学部なんですけど奥村さ……先輩は」
奥村さん、と言いかけた瞬間わざとらしく頬を膨らませ睨みつけられ、俺は慌てて「先輩」と言い直した。どうやら焼き菓子に続き奥村「先輩」の機嫌取りは成功したらしい。満足げに頷いた後、少しばかり残念そうにつぶやいた。
「あちゃ、残念。私文学部なんだよ、でも先輩であることに変わりはないからね」
これから宜しく、後輩君と笑い奥村先輩はぱたぱたと手を振ってみせた。
「マドレーヌ、ありがとね」
その言葉を最後に、明るいアッシュブラウンの髪が扉の向こう側へと消えていく。俺は隣室の扉が完全に閉まる音を聞き届けた後、自分が情けないほど顔を緩ませてしまっていることに気が付いた。
慌てて顔を引き締め、一〇二号室の扉を開き部屋に足を踏み入れる前に薄暗い部屋の中に向かって頭を直角に下げる。
「ごめん、りんちゃん」
決して彼女を裏切ったわけではないが、それでも、りんちゃんとの再会より先に出会ってしまった魅力的な隣人に、胸を高鳴らせてしまった俺をどうか責めないで欲しい。
部屋の中から何か物音一つでも聞こえてこないかと耳を聳てて見たが、ラップ音一つ起きることは無かった。
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