第5話
俺は、焼き菓子が入った紙袋を抱えたまま、ちらりと閉まったままの一〇三号室の扉へと視線を向ける。
かつて「りんちゃん」が母親と二人きりで暮らしていたアパートの端に位置するその部屋も、今は名前も知らない住人が暮らしているのだろう。彼女の母親は、自分の娘が殺された後すぐにこのアパートを後にしたと聞いているが、その後どうしているのかは分からない。
一○三号室も先程の如月宅と同じく表札はついていないが、空き部屋として貸し出しだされていない以上誰かが住んではいるはずだ。郵便受けに手紙が詰まっていないところを見ると、少なくとも先ほど言葉を交わしたばかりの男より、多少ましな人間が住んでいると信じたい。
(まあ、曰く付きの部屋の隣で、しかもこんなボロアパートとなれば女の子が住んでるはずないけどな)
俺だって暗い過去があるとはいえこれから新生活、いわゆる大学デビューをする十八歳だ。
多感な年頃として、一人暮らしを始めた隣室に少し大人びた社会人の女性や、もしくは同じ大学に通う女の子が同時期に引っ越してきた……と言った男子学生らしい健全な妄想を引っ越し前に一度や二度程度ならしたことがある。この程度の妄想なら、まだ可愛げがあるものだろう。
だが、防犯意識が年々高まっている昨今、世の女性たちがこんなセキュリティのセの字もないような場所に住んでいるなど、あり得るはずがない。オートロックはおろか、かろうじて鍵がかかる程度の防犯しかないアパートなのだから。
とりあえず一度だけ、と試しに扉の横に備え付けられた呼び鈴を押してみる。だが先ほどと同じく、スカスカとした手ごたえのない感覚が指の腹に伝わっただけだった。
(……もしかして、このアパート何処も呼び鈴壊れてるんじゃねーのか?)
自分の部屋はどうだっただろうか。
少なくとも引っ越し業者以外まだ来訪者はいないが一度どこかで試してみた方が良いだろう。もし呼び鈴が壊れているのなら、今後宅配業者が来た時に(果たして近隣の配達業者があの家に配達をしてくれるのかは分からないが)永遠に気づけないことになってしまう。
如月宅でやったのと同じように扉を叩いてみる、という手もあるが先ほどと同じ目に遭うのはご免だった。下手に動いて藪から蛇を出すのはもうごめんだ。
(仕方ない、これは俺の今日の晩飯だな)
渡せずに残ってしまった紙袋を手にしたまま、俺がすごすごと一〇二号室の中へ戻ろうとしたその瞬間だった。タイミングよく隣から響いた扉の開く音に、俺は思わず音のする方へ顔を向けそのまま固まってしまった。
先程一〇一号室の扉が開いた時とは正反対の理由で固まってしまった俺を、どうか誰も責めないで欲しい。作りの同じ古ぼけた扉から、どこか警戒するように顔をのぞかせていたのは同じ年頃の女性だったのだ。
服装を見る限り、どこかに出かけるといった様子ではなく外でなにやら声が聞こえたから確認がてら扉をあけた……という所なのだろうか。もしくは俺が壊れていると思っていた呼び鈴が、部屋の中に響いていた可能性もある。
着ているパステルカラーのパーカーは、あまりサイズが合っていないのかぶかぶかだ。太腿程度まで伸びた裾からは暖かそうな黒スパッツに覆われた細い足がすらりと伸び、便所サンダルとは雲泥の差のセンスの良いサンダルが覗いていた。
今まであまり見たことが無かった同じ年頃の女性の部屋着姿に、俺は思わず目を逸らしてしまう。
「あ、あのっ……俺、昨日ここに引っ越してきました間宮悟と申します!」
用事もないのに女性の家の前をうろついていた不審者と思われないために、俺は先手必勝とばかりに扉の前に駆け戻ると、上ずった声で必要もないのに苗字から名前までフルネームで名乗りを上げてしまった。
最初は訝し気にこちらを見つけていた女性は、戦場の武士のごとく名乗りを上げた俺の勢いに驚いてしまったのか、大きな目を更に見開くと、数度瞬きをしたあと小さく吹き出し笑い始めてしまった。
くすくすと響く笑い声に合わせ、シュシュで一つに結ばれた髪が軽やかに揺れる。髪色は最近立ち読みした雑誌に載っていた、今年の春のトレンドとして女性に流行っているという明るいアッシュブラウンだ。春らしいその色は、透き通るような白い肌に映え、まるで彼女の為にある色に思えてしまう程だった。
きっと彼女は自分に似合うことを知っていて、美容院でその髪色に染めたのだろう。大学生活を新たに始めるために、美容師に言われるがままに適当に髪を茶に染めた自分とは大違いだ。
(……可愛い)
先ほどまでのどこか警戒を滲ませた空気が消え、楽しそうに軽やかな笑い声をもらすその姿に俺は思わず目を奪われてしまっていた。
「あの……すみません、俺」
ようやく笑いが収まり始めた女性に、俺は慌てて声を掛ける。
おそらく俺と如月が話している声も部屋の中まで聞こえたのだろう。警戒して顔をのぞかせた女性に、突然九十度の最上級の礼と共に挨拶と名乗りを上げてしまった事実が今になって恥ずかしくなってきた。
「ううん、大丈夫。昨日から隣で音がしてたから、もしかしたら誰か越してきたのかなって思ってたの」
「そうだったんですね、すみません。挨拶が遅れて……えっと」
俺は慌てて顔を上げるが、先ほどの如月宅と同様に扉に表札はかかっていなかった。話に聞くと最近の女性の一人暮らしでは、防犯上表札を付けない事の方が多いらしい。女性が一人暮らしをしていることが知られると、何かと面倒なことが多いというなんとも世知辛い世の中だ。
「ああ、ごめんね。私は奥村、奥村すずね」
おそらく俺が無意識に表札を探していることに気付いたのだろう。
よろしくね、と朗らかに名乗るその姿は先ほどまで俺が想像していた「変わり者」の隣人の姿とは到底かけ離れたものだった。少なくとも、こんな家賃激安のボロアパート、その上曰く付き物件の隣に住んでいて良い女性とは思えなかった。
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