第4話
建付けの悪い扉を開け、俺は昨日入居したばかりのアパートを改めて仰ぎ見る。部屋は一階と二階に各三部屋ずつの、今時珍しい程の小さなオンボロアパートだ。
実質六部屋あるのだが、現在二階にある部屋は全て封鎖されてしまっている。どうやら相当築年数がたっていることもあり、あちこちにガタが来ているらしく二階の部屋を使うと漏れなく一回の天井から水漏れが発生するため随分前から使われていないようだ。
「幽霊が出る前に、そもそもそれってアパートとして大丈夫なのかよ、ここ」
家賃一万五千円という破格の値段で借りている手前余計なことをいうつもりはないが、そもそも建物自体が欠陥だらけなのではないだろうか。
さて、と気を取り直し俺は両隣の扉へと視線を向ける。俺が住むことになったのはアパートの一階中央にある一〇二号室だ。かつて「りんちゃん」が住んでいた一〇三号室も、一〇一号室も現在は既に住人がいるらしく賃貸情報には載っていなかった。
事実、一〇一号室の扉の横に備え付けられたポストには未開封の封筒やチラシが束になって顔を覗かせている。床に落ちかけている手紙を手に取れば、消印は一か月以上前のものだった。どうやらあまり几帳面な性格の住人ではないのだろう。
正直なところ、ろくな奴が住んでいる印象がない。いや、悪評高い事故物件の隣にに平気な顔をして住んでいる輩がまともな人間である可能性の方がすくないのだが。
「……よし」
まずは一〇一号室。どのみち挨拶をしなければいけないなら、面倒な匂いのする方から片を付けてしまった方が良い。
俺は意を決し、扉の横に取り付けられている白いボタンを人差し指の腹で押し込んだ。紙袋を握りしめ、扉の前で背筋を伸ばして待つが扉が開く気配は一向にしない。
(……留守?いや、呼び鈴が壊れているのか?)
呼び鈴は確かに押したはずだが、指の腹に感じたのは手ごたえのないスカスカとした感触だけだった。これだけ古いアパートだ。もしかすると呼び鈴の配線が途中で切れ、住人が気付いていない可能性が高い。
急ぎの挨拶ではないため扉の前に置いて行ってしまっても良いのだが、うっかりあまり日持ちのしないタイプの焼き菓子を買ってしまったのだ。出来れば挨拶がてら直接会って渡してしまいたい。郵便受けにつまった手紙の山を見る限り、玄関に紙袋を下げたところで放置されるのが関の山だろう。
せっかくそれなりに懐を痛めて、そこそこ良いところの焼き菓子を買ったのだからせめて受け取っては欲しいのだ。
そんなことを思いながら、続け様に試しとばかりに呼び鈴を二・三度押し込み、反応が無い事を確認し控えめな音で扉を叩いてみた。
これで反応が無ければきっと留守なのだろう。ならば仕方がない、そう思った矢先だった。
「……煩い」
不機嫌であることを隠しもしない、唸り声のような低い声と共に目の前の扉が開く。
薄暗い部屋の中から現れたのは、健康という言葉から程遠い顔色をした一人の男だった。顔の半分が隠れてしまう程長く伸びた前髪からは、数日徹夜をした後のような青黒い隈が浮かんだ目が二つ覗いていた。
寝ぐせのようにあちこちが跳ねた髪で顔の殆どが隠れてしまっているため、年齢は全く分からない。同い年位にも見えるが、三十代後半に見えないことも無い。全く持って年齢不詳の外見をしている。
もし深夜にこのアパートからこの男が出てくることがあれば、彼自身が幽霊と思い込まれても可笑しくはない外見をしている。もしくは良くて精々不審者というところだろう。
「なんか用?」
あくまで目の前にいる自分を訪問客として扱うつもりはないのだろう。男は不機嫌極まりない声で訝し気に呟いた。
(……げ、便所サンダルかよ)
無意識に男の髪先から足元まで不躾に眺めてしまった俺は、男の履いている靴に思わず絶句してしまう。自分が履いている靴も決して高いとは言えない、高校の時から吐きつぶしている小汚いスニーカーだが、男の靴はそれより更に酷いものだった。
小学校のトイレなどで使われる所謂「便所サンダル」を素足ではき、服装は一体いつ買ったのか分からない程襟が伸びきったTシャツと色褪せたジーンズという、全身併せても明らかに千円以下のコーデという酷い格好だった。
思わず紙袋を抱えたまま固まってしまった俺に、男は更に不機嫌そうな声でもう一度「なんか用?」と同じ台詞を呟いた。さっさと要件を言え、という圧に俺は慌てて我に返る。
「あ、俺……昨日隣に越してきた間宮と言います。これからお世話になると思うので……」
宜しくお願いします、と俺は消えてしまいそうな程小さな声と共に頭を下げる。挨拶に来ておいてこんなことをいうのも失礼だが、今日限りでお世話を遠慮願いたい相手であるのは間違いない。
そもそも、こういう引っ越しの挨拶をした場合、愛想のない「どうも」でも「宜しく」でも、何かしらの反応がある事が普通なのだが。目の前の男は自ら名前を名乗ることも無く、心底興味がないとでもいうように俺に冷たい視線を浴びせていたのだ。
だが、まるで品定めをするように動いていた視線が、俺が手に抱えた白い紙袋でピタリと止まる。どうやら俺自身には全く興味を抱かなかったようだが、紙袋の中身には多少興味を持ってもらえたようだ。それを好機とばかりに、俺は慌てて口を開いた。
「これ、大したものじゃないですけど」
さっさと渡すべきものを渡して切り上げてしまおう。俺はとりあえず手に持っている菓子だけでも渡してしまおうと、男へ向かって紙袋を手渡した。
「これ、食いモン?」
「あ、はい。焼き菓子で……賞味期限が短めなのでできれば早めに」
食べてください、そう伝え終わる前に乱暴な手つきで紙袋を奪い取られ、先ほどまで僅かに開いていた扉は無慈悲な音を立てて閉められてしまった。
「……は?」
扉の前に残されたのは、呆けた顔で扉の前に取り残された俺だけだった。はたから見ればなんとも間抜けな光景だろう。
「な、なんだよ」
男の興味は少なくとも隣に越してきた新しい住人ではなく、俺の持っていた菓子にしかなかったということだ。こちらが丁寧に名乗ったにも関わらず、苗字すら告げなかった男に向かって俺は小さく舌を突き出した。
こんな事なら、良い店の高級焼菓子ではなくその辺のスーパーで安い駄菓子の詰め合わせでも買ってくれば良かった。あんな男にはそれだってもったいない。
表札が掛かっていなかったが、郵便受けから中途半端に飛び出した請求書の封筒から「如月玲」という名前が覗いていた。
当然だが、初めて目にする名前だ。年齢は外見からは判断できなかったが、少なくとも自分が幼い頃に、隣にあんな不審者じみが人間が住んでいた記憶はない。いや、十数年前であれば男の容姿も今とは異なっているのだろうが、少なくともかつての一〇一号室に「如月」という家族は住んでいなかったはずだ。
おそらく、自分がこの家を去った後に此処に越してきた新しい住人なのだろう。
(……めんどくさそうな奴)
それが如月という男に抱いた第一印象だった。正直あまり隣人に持ちたくないタイプの人種ではあるが、先に住んでいたのは向こうなのだから仕方がない。
今は両隣の部屋は貸出をされていないため、実際の家賃がどれ程かは知らないが俺が住む一〇二号室ほどではなくても、近隣のアパートに比べ破格の家賃なのは間違いないはずだ。とはいえ、まともな人間であればたとえ破格の家賃でも隣が心霊物件の部屋に住もうとは思わないだろう。
つまるところ、このアパートに住んでいる住人は隣室がとんでもない曰く付きである物件であることを気にも留めず暮らしている、少なからず変わり者ということになる。
(……次は一〇三号室か。挨拶行くの嫌になってきたぞ)
正直出鼻をくじかれた身としては、残るもう一部屋の住人への挨拶はなかったことにして部屋の中へと戻ってしまいたかった。
冷静に考えてみれば、事故物件として有名な破格の家賃で貸し出されているこのアパートをまともな人間が借りているはずがないのだ。そんなところで普通の引っ越しの際にやる、隣人への挨拶をしてしまった自分の方が此処では異端なのだろう。
紙袋の中には、奮発して買った綺麗にラッピングされた焼き菓子が虚しく入っているが、最悪自分で食べてしまえば良いだけの話だ。
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