第3話


(……結局、何もおこらなかったな)


 昨日荷物を運びこみ、引っ越し後はじめて迎えた夜だったのだが。

 いつ消えてしまうかわからない薄暗い照明の下で、部屋の隅の薄暗がりに少女の姿をした影が現れはしないかと布団の上で背筋を正し固唾を飲んでいたのだが。布団の上に置いた携帯の液晶に映るデジタル時計が深夜零時を知らせても、丑三つ時と言われる時刻を過ぎても影が現れるどころか部屋の中で異音一つする気配は起きなかった。

 掲示板に書かれている今までの記録では「必ず一晩目から怪異が起きる」というのが通説だったはずなのだが。

 慣れない引っ越し作業で疲れ切った身体で、無理に深夜まで気を張り続けたためか、俺は気付けば薄い布団の上に倒れる形で朝を迎えていてという訳だ。


「……噂は当てにならない、か」


 もちろん、恐怖が無かったと言えば嘘になる。


 「りんちゃん」に会わなければいけないという気持ちに嘘偽りはない。だが、いわゆる心霊現象に縁のない生活を送ってきた俺からすれば、幽霊という未知の存在に多少なりとも恐怖という感情が勝ってしまうのは仕方がない事だろう。

 だが、彼女は現れなかった。

 例の掲示板に投稿される情報では引っ越しをした当日から、どれだけ霊感がない者の前でもほとんどの場合「彼女」は現れると言われていた。もし影を見ることが出来なかったとしても、不吉な程の家鳴りや、家具などが勝手に倒れるなど「起こるはずのない」現象が起こると言われていたのだが。


 余程俺には霊を見る才能が無かったのだろうか。

 一度も目を覚まさないほど熟睡するという、全く持って平穏極まりない一晩を過ごしてしまったというわけだ。

 それどころか、相当な熟睡を決め込んでしまったらしい。携帯の液晶に目を向ければ、時刻はすでに昼近くだ。いまだカーテンすら取り付けていない窓からは、すっかり高くまで上った日の光が差し込み、暖かい春の日差しが部屋の中へと差し込んでくる。

俺は畳に敷かれた布団を取り囲むように、乱雑に置かれたままの段ボールの山を見て盛大に溜息をついた。中途半端に口を開けたままの荷物を前に、途端に現実に引き戻されてしまったのだ。

 今の俺には心霊現象より恐ろしい現実、段ボールに詰められたまま山になっている荷物の片づけが待っていたのだ。


「……とりあえず、起きるか」


 俺は二度寝を要求してくる気怠い身体に喝をいれ、ゆっくりと立ち上がる。

 引っ越し自体は初めてではないが、少なくとも今までの引っ越しの際は必ず隣に母がいた。俺にとって、一人きりでの引っ越しも完全な一人暮らしもこれが初めてということになる。今までの引っ越しでは少なくとも家の中まで業者が荷物を運びこんでくれたのだが、今回は例外だった。

 就職に進学、新生活が重なる春先のこの季節は、引っ越し所謂業者にとっては掻き入れ時だ。

 依頼の電話をした時は「これから大学生ですが、新生活が楽しみですね」とにこやかに対応してくれていたのだが、いざ引っ越し先の住所が件の有名な事故物件となると急に対応が他所他所しくなってしまったのだ。

 先日までのあの親身な対応は一体どこへ行ってしまったのか。荷物の運び入れについて懇切丁寧に説明してくれていたというのに、引っ越し先の住所を見るやいなやドア先までしか荷物を運ぶことは出来ないと拒否されてしまった。

 どうやら引っ越し業者のスタッフたちはこの家の中に足を踏み入れることすら嫌、ということらしい。その分料金を安くするから、と最終的に泣きつくように懇願され渋々承知したという訳だ。貧乏学生の一人暮らしのため、荷物は少ない方だがそれでも家具の運び入れなどは多少なりとも重労働だ。

 昨晩は流石に外に放置することのできない家具と家電の設置と布団を取り出すだけで日が暮れてしまい、残りの荷物はご覧の通り部屋の中に運び込んだまま手つかずのままになってしまっていた。


「……整理、の前に挨拶に行かないとな」


 俺は壁にもたれかかるように置かれた、白い二つの紙袋へと手を伸ばす。中には丁寧にラッピングされた焼き菓子の箱が二つ、それぞれ袋の中から顔を覗かせている。当然だが、自身が食べる用の菓子ではない。


『快適な新生活は、近隣住民との良好な関係から』


 かつて誰よりも近所へ気を配っていた母が言っていた言葉を、俺は静かに呟いた。果たして事故物件であるこのアパートで快適と呼べる新生活が始まるのかは聊か首を傾げるところはあるが、今はとりあえず置いておくことにする。

 事実、母は今までどんな場所に越したとしても必ず両隣の家へ挨拶をかかすことだけはしなかった。夫が殺人を犯した、という後ろ暗い過去があるからこそ「自分たちは害がある人間ではない」ということを証明することに躍起になっていたのだろう。

最初に誠意を見せていれば、後々から後ろ指を指されることが少なくなるという事を、俺は人生のライフハックとして母の背から学んでいた。

 隙あらば襲い掛かる睡魔から逃れるために急いで顔を洗い、脱衣所の所々汚れで曇ってしまった鏡を前に、飛び跳ねてしまった寝ぐせを直す。もしや鏡の端に何か映りこむのではないか、と薄目で確認するが、鏡に映っているのは寝癖が直りきらなかった間抜け面の自分の顔だけだった。


「とりあえず、一〇一号室からにするか」


 何をやっているのだ、と溜息を洩らしつつ、気分を切り替えるために俺は静かな部屋の中でぽつりとつぶやいた。

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