第42話 よくぞ今日まで耐えてくれましたね
「結局、五郎達が俺らの名前を語ったのは、俺達稲荷の人気を隠れ蓑にしようって事だったらしいです」
はぁ、と狐次郎がため息をつく。中央に戌二が包帯を巻かれ布団に寝転がっている。彼を挟んで申助と狐次郎が座っていた。
あれから十日ほどが経過した。国主の屋敷の一角が戌二の療養のためにあてがわれ、もうしばらく逗留して傷を治すようにと言われている。
「神を妖怪に堕としたい場合、正攻法でいくなら氏子の数を減らせばいいんですけど、大量虐殺をすると奉行所が動く。そこで、物理的に祠や神社を消していくという手に出たようですね。そして、稲荷とは名ばかりのハリボテを作って氏子に神を追い出させる」
やられた方はたまったものではない。稲荷としても無駄に怒りを買ってしまい、動かざるを得ない状況になった。
「とりあえず、これで俺は調査終了ということで報告に帰ります」
ばちり、と片目を瞑ると狐次郎は申助を見る。
「怪我はもう大丈夫なのか?」
「まだ少し痛みますけどね。まぁ、調査報告終了したら休みはもらえると思うんで、その間に治そうと思います」
ニコリと狐次郎は綺麗に微笑む。それから、戌二に視線を移した。
「そこの犬っころに飽きたら俺が相手しますからいつでも呼んでくださいね。出来るだけ早く駆けつけますから」
「まだ言ってんのかよ、それ……」
申助は呆れたため息を吐く。狐次郎は唇を尖らせた。
「俺はいつだって本気ですって! 大体、申助は離縁して猿神族の方に帰るかもしれないでしょ? なら俺が求婚しても問題ないですよね!?」
ぐ、と申助は唇を引き結ぶ。
五郎は妖怪にする呪術までは覚えていても、異性に見せる方法を覚えていないと言い、更には申彦達を神に戻す方法を先に着手しろと命令されており、申助の呪符は作ってもらえていないのだ。
今のところ、まだ戌太郎にバレてはいないがこの先どうなるかはわからない。
「いいからさっさと行け。さっきからうるさい」
申助達の下で戌二が呻く。狐次郎は立ち上がった。
「はーい。じゃ、申助、一緒に行ってもう少し話しましょう」
「違う。お前一人で帰れ。あと申助もあまり近寄るな。匂いが移る」
戌二は耳を伏せて威嚇する。
「これで移るんならお前にも移ってんだろ」
申助はため息をつく。こんな時に匂いの心配か、とやさぐれた気持ちになった。確かに狐次郎の匂いは人工的なもので戌二にとって心地良いものではないだろうが。
狐次郎は瞬きをする。
「あれ? 知らないんスか? 犬神族って、自分の伴侶に他の生き物の匂いがつくのを嫌がるんスよ」
「……は?」
「だから、匂いがついていたらその匂いを消して自分の匂いで上書きする習性があるんです。勝手ですよね。申助の体は申助のものなのに」
申助はそ、と戌二に視線を移す。彼は憮然とした顔をして天井を見ていた。頬が熱くなるのを感じる。
「……そうか」
嬉しくて顔がニヤける。伴侶だと思われていたのだ。もし相手が他の者であれば狐次郎の言葉に大いに頷いていたが、戌二ならば別である。全ての者の中で、申助にとって戌二だけは特別なのだ。
狐次郎はそんな申助の顔を見てふぅ、と諦めたようにため息をついた。
「あーもう、ご馳走様です。それじゃ、俺はこれで。また会うことがあると思いますが、その時はどうぞよろしくお願いします」
踵を返し、狐次郎は障子を開けて部屋を出ていく。少し乱暴な足音が遠ざかっていった。外はまだ明るく、今から出立しても日の入りまでに京に戻れそうだった。
戌二に視線を戻し、申助は尋ねる。
「……お前、狐次郎の匂いが俺につくのが嫌って言ってたのって、そういう事なのか?」
戌二は申助の方をゆっくりと振り向いた。
「……そうだって言ったら?」
「え……、いや、でも」
あっさりと返され、申助は目を丸くする。彼の態度はまったく申助の事を好きなようには思えなかったのだ。つい五日前だって、申助が送り返されるかもしれないと知りつつ呪符を取りに戻るのを止めさせた。
「……申代姉でも俺でもどっちでもいいって前に戌太郎に言ってたじゃねぇか」
口を尖らせて心に引っかかっていた事を告げる。
「……そんな事言っていたか?」
戌二は目を細め、記憶を辿っている。
「言った。俺が申助だって戌太郎にバレた時」
ああ、と戌二が呟く。思い出したようだった。
「あの時俺は男でも女でもどちらでもいいと言ったんだ」
「……つまり、そういう事なんじゃねぇの?」
「お前なら男でも女でもどっちでもいいって事だよ。第一、ああ言わないとあの場は切り抜けられなかっただろうが」
戌二は目尻を赤く染める。これは、本当に戌二は自分の事を好きなのかも知れない。申助は次第に実感が湧いてくる。
心臓がばくばくとうるさい。きっと今頃、頬は真っ赤に染まっているだろう。戌二は続ける。
「お前が来て、俺が夢中になれるもんを一緒に探そうって言って、色んな遊びをしただろう? 俺に負けるたびに悔しそうな顔をして、勝ったら目をキラキラ輝かせて。そうしてお前のたくさんの表情を見るたびに俺の世界がどんどん色を帯びていった。共に過ごせる時間が楽しくて、もっとお前と居たいと思ったんだ」
心臓が口から飛び出そうだった。申助は咄嗟に顔を手で覆う。
「……嬉しくて死にそう」
蚊の鳴くような声でそれだけ呟く。ぐい、と戌二が腕を引っ張る感触がした。倒れ込み、顔と顔が接近する。どちらともなく、口付けた。
最初は触れるだけだったが、すぐに舌が侵入してくる。酷く甘く感じた。
唇を離し、目と目があう。戌二の瞳が蕩けていた。こいつでもこんな顔が出来るのか。もう一度、と顔を近づけようとした所で、足音がする。
「おい、申助、戌二、お客さん……」
家主である国主だ。咄嗟に顔を引き離すがばっちり見られていたようで、彼の顔は赤く染まり、視線は宙を泳いでいる。須久那が傷つけられた時や、拷問をしていた時の恐ろしい人物と本当に同一人物だろうかと思う狼狽っぷりだった。
包帯だらけの戌二に配慮し、客のほうが部屋に通される。戌太郎と申姫だった。国主は退出し、親族だけの空間にしてくれた。
「姉さん!」
「戌太郎兄上」
申助は背筋を正す。猿神族と犬神族の次期当主がどうしたのだろう、と思っていると、申姫は笑みを満面に湛えて申助に抱きついてきた。
「ああ、申助。よくぞ今日まで耐えてくれましたね。ついに人間が合祀を取りやめるそうです」
「……へ」
姉の言葉に申助は目を丸くする。戌太郎が補足した。
「せっかく合祀をしても神隠しは止まらないわ、税は軽くならないわ、景気もよくならないわ、極めつけに山火事がおこるわで。やはり犬猿の仲というし、犬神と猿神は一緒にしてはいけなかったのではと噂になり、合祀をとりやめようと言う話になったのです」
山火事とは富士楽から出火したあの火事の事だろう。
「……つまり」
「無事に離縁成立です。あなたも申代も嫁に行かなくてよくなりました! これでまた、今まで通り私達は一緒に暮らせるのです」
申姫は愛おしそうに申助の手を取る。本心で言ってくれているのだろう。きっと嫁ぐ前の申助なら喜んでいただろう。けれど、今は喜べなかった。戌二と結婚し、富士楽と関わった事で申助の価値観は変わってしまっていた。
今も姉や母のことは好きだ。何かあれば一番に助け、守りに駆けつけたい。けれど、生まれ持った性別で差別され、行動を制限されるあの場所に戻りたいとはもう思えなかった。
何より今は戌二を愛してしまっている。彼と離れ離れになりたくない。
「……申助?」
俯いた弟に申姫は不思議そうな顔をする。どうしても笑顔が作れなかった。戌二が起き上がり、かすれた声で尋ねる。
「……このまま、現状維持を続けることは叶いませんか?」
申助も願いを込めて姉を見た。
「現状維持とは、婚姻したままにしておくということ?」
申姫が首を傾げる。すぐに戌太郎が首を横に振った。
「それはダメだねぇ。申助と個人的に仲良くするぶんには構わないけれど、何かあった時に別の者と婚姻関係を結べるようにしておいてほしいんだ。氏子不足は根本的には解決していないからね。今回みたいな合祀がいつまた起こるかわからない」
「そうよ、申助。私達猿神族だって、子供を作って繁栄しなければなりません。そのためには申助には戻ってもらって育児や家の周りのこと、子作りに協力をしてもらわなければいけないわ」
申姫も真顔で告げる。これが家のしきたりであり、猿神族の常識だった。
戌二も視線を伏せる。幼い頃からの教育が当主に歯向かうのを躊躇わせていた。何より、彼らに逆らって群れを離反してしまえば、五郎のように妖怪に堕ちてしまう。
悲しげに視線を伏せる申助と戌二を見つめ、ふぅ、と申姫は悩まし気なため息をついた。
「てっきり喜んでくれるものだと思っていたわ。あなた、嫁ぐ直前まで嫌だって喚いていたじゃない。でも、これはもう決まったことなの。こちらの都合で振り回して申し訳ないとは思うけれど、明日には帰ってきて、諸々の手続きを済ませて頂戴ね」
唇を引き結ぶ。どうしても頷くことは出来なかった。話は済んだとばかりに申姫は立ち上がる。戌太郎も続いた。彼女達は報告をしに来ただけなので、もう帰るのだと言う。
遠く山の向こうに夕焼けが沈もうとしている。姉たちを見送り、戌二を振り返ると、彼は沈痛な面持ちで申助を見つめていた。視界が滲みながらも申助は戌二に近寄る。彼の手を取り、ぎゅうと握った。
「……なぁ、どうしよう、戌二」
手が震えている。戌二も白い満月の瞳を悲しげに細め、申助を見ていた。
「帰りたくない」
ぽろり。涙が一粒こぼれ落ちる。
戌二は起き上がると転変した。獣の瞳で申助を凝視する。彼の意図を察した申助も猿の姿になった。
戌二は自分の背中に乗るようにと促してきた。大丈夫だろうか、と恐る恐る手をかけると、戌二は口で申助の毛皮を引っ張り、申助を担ぎ上げて床を蹴る。彼の体に巻かれていた包帯や衣服がその場に脱ぎ捨てられ散らばっていた。
縁側から庭に降りて駆け出し塀を乗り越える。周囲を朱色に染められた特別な時間。見逃されたのか、気づかれなかったのか。追ってくるものはいなかった。
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