花浅葱色の幸せ

弐月一録

花浅葱色の幸せ

人ってやつは、生まれつき胸のところに穴がある。俺には不思議とそれが見えた。なぜかはわからない。


穴の大きさは人それぞれだ。両脇まで大きいやつや米粒くらい小さいやつ。


つまりだな、大きければ大きいほどそいつは欲張りなんだ。だって穴を埋めるためにたくさんのものを求めなきゃいけないんだから。


たくさんのものっていうのは、まぁ、色々だよ。金だったり女だったり酒だったり、自分が満たされるものさ。おっと、俺のことじゃないぞ。一般例だ。


悲しきかな、人は毎日毎日穴を埋めるのに必死なんだ。穴が空になったら何かを求めていく。そうしないと起き上がることもできない弱い生き物なんだよ。


俺もそうだ。


俺の胸には拳大くらいの穴がある。心臓と同じ大きさだろうな。


穴が埋まっていくと花浅葱色の水が見えるんだ。青に緑がかった綺麗な色なんだよ。


水が減るとそいつの顔もどんどん暗くなってく。水が増えるとどんどん明るくなっていく。幸不幸の塩梅がこれでわかるってわけ。面白いだろう。俺だけの特権だよ。


俺もな、昔は溢れるくらい水があったんだが、今じゃ空っぽだ。なぁに、珍しいもんじゃない、穴が空っぽで死人みたいな顔して歩いてるやつはたくさんいるよ。


3年前に妻が死んだんだ。それっきり穴には水1滴溜まらなかった。枯れた井戸だな。


一生分の愛を取られちまったまま、妻が逝ったせいだ。ギャンブルをやっても酒を浴びるように飲んでも楽しくないし、他の女も愛せない。


穴は埋まらなかった。妻以外に、大事なものはこの世になかったってことだ。


しらけた話をして悪い、ここからはちょっと楽しい話になるからさ。


俺は動物が好きでその中でも1番猫が好きなんだ。とにかく、この穴を埋めるために好きなものと関わろうと思ったんだ。そうしないといよいよ廃人になりそうだから。


やってみたのは猫ボランティアだ。野良猫を保護したり里親を募集したりするんだ。しばらくやってみたら胸の穴に水がほんの少しだけ溜まった。蛇口の水漏れみたいにちょっとだけな。


ボランティア仲間に顔色が良くなってきたって言われて嬉しかったよ。俺なりに前に進めてるんだなって。妻にもいい報告ができるし。


だけど、穴が水いっぱいになることはなかった。


時々、何もかもが嫌になって全部が憎くなることがある。そんな時は決まって穴が空っぽなんだ。少し溜まってはすぐ空になる。これの繰り返しで頭が疲れちまう。例えるならガス欠になりかけの車に少量ガソリン補充をして、何度も走らせているようなもんだ。


明後日にでも、明日にでも死んじまおうかって縁起でもないこと考えちまう。


また暗い話になった。悪い。


そんな辛い状態でももちろんボランティアは続けたよ。助けを求めてる猫は待ってくれないからな。


飯を食うのも忘れ、寝ている時でも猫のことばかりをひたすら考えた。恩返しなんかいらない。俺の代わりに幸せになってほしかった。


そんなある日、1匹だけでもいいから猫を飼ってくれないかと頼まれた。里親が見つからず貰い手がないから俺にも協力してほしいってよ。


猫1匹といえど重い命だ。だが、俺の手で育てられるか心配だったし、待っていればもっといいやつに育ててもらえるんじゃないかと思った。


迷いに迷ったが、保護された猫達に会うことにした。


生まれて間もない猫から年老いた猫が動物愛護団体施設にたくさんいるんだ。こいつらがみんな幸せになれたらいいなって思いながら施設内を歩いたよ。


その中に、気になる猫がいた。両手のひらにおさまるくらい小さくて、黒一色の猫。なぜかガラス箱の中に1匹だけで入れられてたんだ。


そいつの目は、綺麗な花浅葱色だった。俺にはない、幸福の色だ。


その猫のことを尋ねたら、どうやらまだ生まれて数週間の雌猫で、保護された母猫が施設で産み落としたらしい。母猫と他の仔猫は里親が見つかったが、弱々しく小さいこいつだけは残っちまったんだ。


手を消毒して、俺はそいつを手のひらで優しく抱いた。温かくて、心臓が一生懸命動いてるんだよ。こんなに頼りなくて小さくても生きてるんだな。


そしたら、涙が出てきたんだ。妻が死んでから流さなかったのに、別に今悲しくはないのに、泣いてしまったんだ。


ちょうどそいつの大きさは、俺の胸の穴と同じ大きさだった。ちょうど、空洞にぴったりおさまるくらいの。


生まれた日を知った時は驚いた。ああ、なるほど。だから俺はこいつに惹かれたんだなって納得したよ。


そんなわけで、今はその猫に花子って名前を付けて育ててる。飯もいっぱい食べていたずらもするほど元気に成長したよ。娘みたいなもんだ。


巡り合わせっていうのは本当にあるのかもしれない。


花子が生まれた日と妻の誕生日が同じだった。偶然の一言で終わるのはつまらない。だって誕生日を知る前から花子を引き取りたいと思ってたからな。これはまるで誰かが用意した最高の贈り物みたいだろ。


だが、花子。おまえを選んだ理由はな、目が綺麗だとか妻と誕生日が同じだからって理由じゃない。おまえは俺の胸の穴を、幸せの色でいっぱいにしてくれると確信したからなんだ。


見ろ、花浅葱色の水が溢れて止まらない。


胸の穴が見える力は、この日のためにあったのかもしれない。


80年近く生きてきて、やっと日に日に穴が見えなくなっていった。


寂しい気もするが、俺にはもう必要ない。


この先何があっても大丈夫な気がするんだ。


俺が先に死ぬか、花子が先に死ぬかはわからないが、それまで毎日を楽しむよ。


花浅葱色の幸せは、いつも傍にいるんだからな。




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