氷闇の公爵令嬢と麗しの刺客

三月よる

氷闇の公爵令嬢と麗しの刺客〜少年は身も心も囚われて〜

「はい、ナイト。今日はあえてナイトの大嫌いなブロッコリーサラダにしてみたの」

「はぁ……口直しは?」

「ふふっわたしがキスしてあげる」

「おい急にやめろ!!」


 小鳥のように相手の口先を喰み、鈴を転がすような声で笑う娘と、嫌よ嫌よしつつも拒まない青年。彼らの声が響くここは、王都中心街の西に位置する巨大な屋敷、ロックブラド公爵邸の私室だ。

 娘は公爵家の1人娘、アリア・ロックブラド。

 そしてその娘に翻弄される青年の名はナイト。


 2人の出会いは数ヶ月前に遡る。



 ◇◇◇



 あれは日陰に雪が残る春先の頃だった。

 その日、アリアはいつもと同じがらんどうの我が家で、豪華なホールケーキを手に、暗い部屋の窓から夜空を見上げていた。


「ハッピーバースデー、わたし」


 アリアが18本の蝋燭を3回に分けて吹き消すと、色とりどりの蝋燭達が白い煙を燻らした。

 そう、この日はアリア・ロックブラド公爵令嬢の18歳の誕生日だった。

 しかし誕生日だからと何が特別という事もなく、ただ生まれた瞬間がまた1年遠のいただけで、外出しがちな父親は例に漏れず今日も不在だ。


 父親はロックブラド公爵家当主。母親はアリアが10歳の時に病死しており、それから公爵家は公爵とアリアの2人きり。公爵が家を空けるようになったのはそれからまもなくのことだった。

 曰く「領地経営で多忙」という事だったがアリアは知っている。公爵には女がいたのだ、それもアリアが生まれる前から。


 相手はロックブラド領地近くに位置する男爵家の女。公爵とその女は、アリアの母親との政略結婚で引き裂かれた哀れな男女だそうで、今は2人で目下幸せを追求中だ。彼らの過去の哀しみは残されたアリアに引き継がれた。

 哀れなアリア。けれど彼女が悲嘆に暮れたところで助けてくれる者は誰もいなかった。

 

(慣れたわこんなこと。もう8年目ですもの)


 1つだけ、去年までと違うことはこのホールケーキだ。淡い水色のこっくりとしたバタークリームは3段重ねのスポンジケーキを滑らかに包み、トップは青薔薇の飴細工で繊細に飾り付けられてため息が出るほど美しい。


 何度も独りの誕生日を過ごすアリアを不憫に思ったのだろう、使用人達が腕を振るった傑作品だ。 

 そんな悲しくも特別なケーキにこの辛気臭い空気を吸わせてはならないと思い、アリアが窓を開けてケーキに夜空を見せた時だった。


「動くな」


 ケーキを持って立つアリアの後方から若い男の声がして、それと同時にシャキリと折りたたみナイフの刃を出す音が聞こえた。

 刺客で間違いない、そう思いケーキを乗せた重い銀トレーが揺れる。


「腕を上げてゆっくりこっちを向け」

「申し訳ありませんが、わたくしケーキを持っておりまして」

「捨てればいい」

「食べ物は粗末にできませんわ」

「……じゃあそれごと上げろ」


 緊迫した空気に似つかわしくない、アリアの応え。

その彼女の反応に、刺客が動揺したのが背中越しにアリアに伝わった。それからアリアは言われた通りに重い銀トレーを持ったまま腕を上げ、声の方向を振り向いた。


「あら、まあ……」


 アリアは思わず感嘆した。理由は2つ。


 1つ目は、刺客が眉目秀麗な青年だったから。年頃はそう、アリアと同じくらいだろうか。

 一歩ずつこちらへ近づいて来た彼はアリアより頭2つ分は高い上背があり、人目を忍ぶには背丈がハンデになり大変だろうとアリアは思った。

 さらに見れば、無造作に掻き上げられたゴールデンブロンドの艶髪は月夜に照らされ主張するように輝き、悪事をするには澄んだ青い瞳が悲しくも美しい。


 そして2つ目は、青年がそれらを隠していないから。刺客のくせに己の容姿全容を晒すなんて相当のやり手かただのバカ。いや、捨て駒だろうか。


(そうね、綺麗な捨て子ってところかしら)


 それならば都合がいいとアリアは思った。

 彼女の胸が期待で疼く。

 そうしてアリアが彼をジロジロと見て検分し終わった頃、目の前の青年はナイフを光らせながら言った。


「最後に残すことは?」

「えぇ、1つ。あなた殺しは初めて?」

「そっそんなわけっ……」


 アリアの思わぬ言葉にたじろぎ、纏ったマントに足を取られて後ろに尻もちをつく青年。


 あぁなんて分かりやすく正直な人間だろう……彼には刺客ではなく別の道がおすすめだ。喜んで再就職先を紹介したい、とアリアは思う。


 アリアが意気込んで細身の背筋が伸びると、それを見て余計に焦った青年が、自身に絡まるマントと激しく格闘した。その姿を見たアリアは一歩前に出て恍惚の表情を浮かべる。

 そしてアリアは眼前のもがく青年に、あくまで善意で、彼の人生のために言ってあげた。


「ねぇ、あなた。後学のために教えてあげる」

「は? 何を……」

「逝かせる時はね、躊躇ってはダメよ」


 ーーーーゴッ


 アリアは青年の頭にケーキの乗った銀トレーを勢いよく振り下ろした。それはターゲットの頭頂を惜しげもなく強打し、ケーキは後追いのように頭部へ儚く散り落ちていく。そのケーキをスローモーション送りのようにゆっくり眺めると、アリアの胸は多幸感で満ちた。

 飴細工の薔薇が花火のように、バタークリームは雪のように舞って魅せてはカーペットの上へ誘われ散っていき、それは実に見事な光景だった。


 確かこのケーキのような様を何処かの国では「諸行無常」というのだと家庭教師に習った。

 誕生日ケーキはもったいない事をしたが身をもって復習できて良かったとアリアは思った。


(上手く逝った? さて、綺麗にしなくちゃね)


 カランッ


 銀のトレーを足元に放り投げ、アリアは倒れる青年を見下ろす。

 横を向いたままうつ伏せになった青年の口周りに手を差し出すと、指に温かい呼気がかかってアリアは安堵した。綺麗な横顔はそこらの彫刻よりもずっと美しい。それを目に焼き付けてからアリアは軽量なドレスに着替え、散らかったケーキと青年を手ずから掴んで事を運んだ。


 飛び散ったケーキは寄せ集めて紙で拭き取り、大きく形が残って食べられるケーキは皿によそう。

 青年はベッドまで引きずり上げてそのまま横にさせた。自分よりもずっと大きな青年を運ぶのはなかなかに労力が要ることで、アリアは相手が彼じゃなければここまでしなかったようにも思った。

 青年にとっては不幸中の幸いだと言えよう。


 それから青年の応急処置とケーキの残骸の片付けを済ませてから約8時間が経った頃、ベッドサイドでうたた寝するアリアに呻き声が聞こえた。


 青年の顔をそっと覗き込みそのまま観察していると、瞼の奥で目玉が2、3度左右に振れ、ゆっくりと開目した彼の青瞳に朝日が差して光っている。

 その瞳はいつか文献で見た地底湖に似ていて、永久保存したいくらいだとアリアは見惚れたのだった。そして彼女は、そのお気に入りの瞳に優しく語りかける。


「おはよう。よく眠れたかしら」

「うわ!! なんだこの紐外せよっうっ……!!」

「ダメよ無理しちゃ!今日からあなたはわたしの物なんだから、わたしのために自分を大事にしてもらわないと」

「それ、どういう事だよ」


 青年は重鈍く痛むであろう頭を傾げ、縛られた手足に眉を顰めるとアリアに聞く。

 アリアはその青年の輪郭を指先でなぞってから顎を掴み、人形のように綺麗な顔を優しくこちらへ向けた。青年の眼力はとても強く、アリアは感心する。


 なるほど、状況を確認する気力はあるようだ。手荒な寝かしつけで少々不安もあったが内傷がないようで一安心。


「あなたの主人が誰かは知らないけど、わたしを殺すように言われたんでしょう?」

「雇用主の名前か? 誰が言うかよ!」

「ふふっ真面目でいい子ね、でも重要なのはそこじゃないの。ハッキリ言うわ、あなた捨て駒よ」

「は?」


 断言された青年は目を泳がせた。

 主人の名前を言わないと息巻いたのはいいが、すぐに慌ててしまうのは彼の悪い癖だ。これから躾け直すのもいいが、そのまま愚かに素直でいてほしい気もする。

 それから彼の耳には少々痛い事をアリアは告げた。

 

「だって人殺し未経験なあなたをわたしに送って、返り討ちにあうのは向こうも想定済みでしょう? しかも昨日はわたしの誕生日だった。これってつまり、向こうからの"贈り物"よね?」

「言ってる意味がわかんねえ。なんであんたに返り討ちに合う前提なんだよ」


 頭が動くと痛むのか、焦って興奮した様子でもその体は極力動かない。それでも逃げようと突っ張る手足は紐が食い込み血液の通りが悪くなっていたので、アリアは青年の、その冷たい拳をそっと撫でた。緊張と恐怖で感覚が鋭利になっている彼はピクリと体が跳ね上がり、それがなんとも愛らしい。


(よりによってわたしの所へ送られるなんて、可哀想に……)


 しかし人生とはそうして辛酸舐めて生きていくもの。青年にはいい経験になったはずだし、アリアにとってはいい収穫になった。


「あらご存知ない? わたしはアリア・ロックブラド、"返却令嬢"として裏社会では有名らしいの」

「返却令嬢?」

「ええ、我が家は国境にある領地に大きな鉱山を持っていてね。それを奪おうとして、わたしを攫ったり殺そうとする悪い人達がいるのよ。だからその人達をやっつけて懲らしめて…」


 それから、痛めつけて可哀想なうちは返さず公爵邸に居残りさせ、じっくり可愛がる。

 そしてこれ以上は流石に悲惨だろうかという所で、最後は主人のところへ丁寧に送り返すというおもてなしだ。

 アリアとしては礼を尽くしたつもりでいたが「そのやり口が恐ろしい」と不興を買っていたようで、いつか磔にした刺客が教えてくれたものだった。


 その通り名の由縁を知った青年は、心を踊らすアリアとは正反対に汗を滲ませ震えている。

 可哀想づくめな青年は、もしや可哀想の使徒ではないかと思うほどで、彼がここに送られて来たことはアリアにとって実に僥倖だった。

 そうアリアは──、


 "可哀想なもの"が大好きなのだ。


「あなた、歳とお名前は?」

「17歳…名前はって、言えねーだろ普通に」

「でもこれからずっと一緒なんだもの。名前がないと不便でしょう?」

「ずっと? ずっと……って、ずっと?」


 認めたがらず何度も同じことを繰り返し聞く青年。返事の代わりにアリアがにっこり微笑むと、彼の大きく澄んだ青い瞳が潤み、その水面にアリアを映した。


(観念なさい。ターゲットがわたしに決まった時点であなたはもうわたしの物だったのよ)


「まあいいわ。名前は教えてくれるまで"ナイト"って呼ぶわね。誕生日の夜の、特別な贈り物だもの」



 ◇◇◇



 ナイトがロックブラド公爵邸に囚われて早9ヶ月。

 閉じ込められた身にも関わらず、今が1番いい暮らしをしてることは否めない。


 この屋敷はどこもかしこも金がかけられている。額縁やドアノブは純金、壁面は全て大理石で声が響き、足場は赤い絨毯が柔らかだ。

 ここのどれを売っても暫く豪遊できそうな絢爛ぷりだが、それらに塵が積もっているのを見ると高揚した気持ちも自然と萎えた。


 屋敷の主人である公爵は家に戻らず月の殆どを外で過ごし、たまの帰宅も着替えを取りにくるかついでの仮眠くらいなものだった。

 ナイトは公爵と1度だけ鉢合わせたが、あの娘によく似た顔で「これか」と吐き捨てるように言うとすぐに何処かへ行ってしまった。

 「あんな奴いない方がマシだろ。狙うべきはこっちだったんじゃねーのか?」とナイトは思ったりもしたが、そこでヘマをしたら今頃どうなっていたか分からない。


 そんなこんなで、主人のいない暗い屋敷には使用人達と1人娘が静かに暮らしている。

 その娘は驚くほど白い肌に、乾燥したラベンダー色の瞳、そして青黒い色の髪を持っていた。

 その髪色が昔よく履いた煤けたズボンの色によく似ているので、ナイトは少しの郷愁と痛みを感じた。


 別に、望んで引き受けた仕事ではなかった。

 花売りをしていた母親が逝き、父親を名乗る貴族に拾われ、「後継者になりたければ」とこの仕事を任されたのだ。甘い汁をすする"お貴族様"への当てつけもあったし、それで金も名声も手に入るならとナイトに迷いはなかった。やれると思った。


 ──それなのに。


 ナイトは薄暗い廊下に立ち、月明かりで黒く濃くなる自分の影を見て思いを馳せる。

 日中緩いカーブを描く娘の黒は、夜になると暗がりに塗れる手伝いをし、彼女がどこで何をするかを隠す一助でもあった。

 そうしてナイトの頭にある言葉が浮かんだ。


「お忍びは黒を纏って暗闇に馴染むものよ? あなたは下手だしその容姿じゃ向いてないわ」


(捕まったすぐの頃あいつに言われたっけ)

 

 あの夜、ナイトを捕らえた冷たく笑う狂気の娘と、日の下で隙のない笑顔で微笑む令嬢。

 娘の本当の姿はどちらなのか、ナイトはその二面性が気になって仕方がなかった。

 そしてその都度、ある疑問が生まれた。

 

(なんであいつは俺を捕まえたんだ? 何も求めてこないくせに)


 あの夜以降、娘はナイトを放任していた。

 ナイトは捕まった当初、"遊び道具"にでもされるのだろうと絶望した。

 娘が歴代の刺客にしてきた体罰か、あるいは男女の色事を強要するように、それは様々な暴力でいたぶられるものだと思っていた。

 しかし蓋を開ければ何もなかった。

 最初こそ逃げられないようにと片足を鎖で繋がれたがすぐに解放され、ナイトの頭の手当てが終わると、


「屋敷では自由にしていいわ。何か困ったことがあれば言って? 使用人も沢山いるから」


 と微笑みどこかへ消えた。

 屋敷の使用人は皆ナイトに丁寧に接してきたので聞いてみれば、曰く、娘は公爵代理の執務で忙しくしているそうで、それは仕方のない事だった。

 しかしナイトの苛立ちは日毎に募っていった。捕まえておいて放置するとは何事か、と。

 ナイトが娘に「俺にかまわないのか?」と遠回しに申し出れば「暇すぎて困る」と誤解されて家庭教師をつけられ、果てには猫撫で声ですり寄ってくる香水臭い女をあてがわれた。


(あいつは俺を何だと思ってる? 俺がどうなってもいいのか?)


 そうしているうちにナイトはどんどん焦燥感に駆られ、気がつけば娘の姿を追っていた。


「あ、出て来た」


 最近、分かった事がある。

 少女はかなり几帳面なほうで色々なルーティンがあるが、毎週金曜の夜は西館の地下室で、土曜の夜は東館の地下室で何かをしているのだ。

 まあ、肝心の"何をしているか"は隠れているから見えないのだが。


「バレバレよ?」

「おわっっっっ!!!」


 囁かれた耳を勢いで塞ぎ振り返ると、そこにはキラキラした笑い声と真っ白な顔と真っ黒い髪を持つ主がいた。

 件の娘、アリア・ロックブラドだ。


「ふふっまだまだね。その髪の毛が暗がりでも光るからダメなの。でもそれが綺麗で好きよ」


 両手で軽く手を叩き小さく笑う姿は、人生で起こる様々な"初めて"を喜ぶ赤ん坊のようにも見えて。ここに囚われてからずっと、なんとなくその笑顔に絆されてここまできた。

 それからアリアは言った。


「いらっしゃい、気になるのでしょう?」


 アリアはナイトの手を引いて、先ほど自分が出て来た西館の地下室に案内した。石畳でできた地下道は地上よりもずっと冷えて、彼女の手も氷のように冷たい。

 その冷たさがあの夜の冷たい笑顔と重なった。

 アリアは一体どこまで冷たいのだろう、なにで冷えるのだろう、なにで温まるのだろう。知りたい。


 ──暴きたい。


 彼女の柔らかな手の感触にナイトの心臓が脈打つと、繋がれたナイトの手に血液が集中し、それに気づいたアリアが振り返って言う。


「ナイトはあたたかいわね」

「……まぁ、手が温かいやつは心が冷たい証拠だから。刺客らしいだろ」

「ふふっそんなことないわ。ナイトはこの世で1番あたたかいもの」


 柔らかく微笑むアリアの顔に絹のようにしとやかな髪がなびいた。

 どうして確信できるのだろう、どうしてそんな風に笑えるのだろう。ナイトは腑抜けた顔でアリアを見つめる。


 そうして今にも腐り落ちそうな木製扉の地下室に辿り着くと、彼女が全身を使って力を込めて鍵を開けた。そして扉が音を立てて開いた瞬間、ナイトの意識は現実に引き戻され、同時にここへ来た事を後悔した。

 部屋に入ってすぐ、ひとつ息を吸ったら鉄っぽい臭いが鼻腔を突き刺し、その瞬間にナイトの全身が粟立った。石畳の床を見やればそこら中に茶色くなったシミができており、しかし並べ置かれた厳つい拷問器具はどれも新品同様だった。一体どれだけ念入りに磨かれたのだろうかと、ナイトの体に汗が伝う。

 

 ここで、これで、一体何をしているのかは一目瞭然で。ナイトは硬直して言葉を失った。

 公爵は知っているのだろうか。いや、知っていて黙認し、この生き方をアリアに強いてきたのかもしれない。ナイトが黙って物を考えていると、それを見たアリアが口を開く。


「わたしね、可哀想な物が好きなの。だから毎週ここに来てこの可哀想な道具達を1つ1つ愛でるのよ」

「道具が可哀想?」

「ええ。だってわたしの事情とエゴでここに閉じ込められているわけでしょう? でもそれはあなたも一緒ね」


 ああそうか、この部屋の愛でられる拷問具もこの屋敷に連れて来られ、囚われた物達。まあ確かに、立場は同じだ。でも──

 

「じゃあ俺を愛でるのはいつだよ」


 そう口をついて出た言葉にナイトは自分で自分に驚いた。そして目が点になったアリアを見ては慌てて顔を逸らし、床のシミを数える。

 それから口元や頬を片手で覆い、自分の顔が赤くなるのを必死に隠してみた。いやしかし、残念ながら隠せてはいない。

 ナイトは耳の産毛がサワサワと逆立つように熱くなるのを感じて思った。茹で上がる、もうだめだ。


 ナイトの思いがけない発言からおよそ3秒。

 永遠にも思えたこの時間に耐えきれず、やはり冗談だと撤回しよう!と思った時だった。


「じゃあ──の毎週の予定を教えて?」


 最近教えたナイトの本名を自然に使い、上目遣いで1番綺麗に笑うアリア。真正面からその笑顔を向けられ、悦びと本能でナイトの全身の毛が逆立った。


 ナイトがここに来て9ヶ月。


 逃げたかった、

 逃げられなかった、

 逃げなくなった。


 あれよあれよと流されてここまで来たが、気がつけばアリアとの「その次」を望んでいる自分がいて。

 けれどアリアに放って置かれた、あのジリジリと自分ばかり焦がされた時間を思い出し、ナイトは途端に悔しくなった。

 だから自分の持てる精一杯で、アリアに意趣返しのつもりで言う。


「さぁ? 明日には逃げていなくなってるかもしれねーけど?」


 ──思ってもないくせに。

 柄にもなくいじけて恥ずかしがる姿がまるで処女のようで、ナイトは急に気恥ずかしくなる。

 それでも、自分を止められない。そんな彼を嗜めるようにアリアは言った。

 

「あら、ダメよ。あなたはわたしの物でしょう?」


 貝殻のピンクのように色づく、ふっくら柔らかそうな唇がアリアの言葉を紡ぎ、彼女の甘やかな声が凄惨な秘密の部屋で場違いに響く。


 ナイトはその冀求の言葉を噛み締めた。

 それから悦びで全身が沸騰すると、ナイトは返事の代わりにアリアの冷たい手をおずおずと包んで温める。消えゆく言葉より確かな温もりを感じさせたかった。共に、ここに在るのだと。


 静寂の中で2人きり、まるで時が止まったかのような刹那。暗がりに灯るランプの炎が静かに揺れて、2人の影が重なった。


(ああそうだよ。ずっと一緒だ──)


 孤独も2人寄れば温かい。

 例えそこが、凍てつく闇の世界でも。


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