第29話 タイムマシン
「で、どうだった? 碧。今日のキムディールは?」
テーブルに座るやいなや、ホットコーヒーに口をつけるよりも先に、筧は訊いてきた。N-1の決勝の翌週に、目の前でキムディールの漫才が見られて、嬉しくてたまらないのだろう。
碧も目を輝かせるようにして頷く。
駅からほど近いコーヒーチェーンは、休日ということもあって満席で、いたるところで会話に花が咲いている。店内に流れ季節柄を意識した洋楽。窓の外では、相変わらず高層ビルが天を突き刺すように建っていた。
「すっごい面白かった! N-1のタイムマシンのネタだって分かったときは、鳥肌立ったもん!」
「でしょ! あのネタは二人の代表作であり、鉄板ネタでもあるからね。仕切り直しの今日には、これ以上ない選択だよ。私もYouTubeに上がってるネタ動画、もう全部言えるくらい見てるし。それでも新鮮に面白くて、やっぱり生で見るのは違うなって思った」
赤くなっている筧の頬は、寒さのせいではなさそうだった。
キムディールは今日登場した芸人の中でも、一番ウケていた。笑いに歯止めは利かなくて、碧には笑いすぎて客席全体が狂ってしまったように思えた。三位に終わったN-1グランプリの雪辱を果たせたかどうかは分からないが、本人たちも手ごたえを感じているだろう。
チケット代以上の価値がキムディールの漫才にはあった。
「ねぇ、タイムマシンがあったら、どの時代に行きたいとか碧にはある?」
唐突に筧が訊いてきたから、碧は飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになってしまう。
「何それ? キムディールのネタ?」
「まあそうなんだけどさ、たまにはこういうたらればの話をするのも楽しいじゃん。ね、今パッと思いついたのでいいから」
そう言われて、碧は思わず考え込んでしまう。そんな空想、最後にしたのは一〇年以上前のことだ。
「うーん、今パッと思いつくのだったら江戸時代とかかなぁ。長屋に住んで、町民の暮らしとか体験してみたい」
「へぇー、ベタだね」
「別にベタだっていいじゃん。そういう筧は、どこか行きたい時代でもあんの?」
「私? 私はね、未来に行ってみたいかな」
筧の言うことが輪をかけて突拍子もなく思えて、碧は分かりやすく目を丸くしてしまう。そんな発想、碧には一かけらもなかった。
「未来って、いつ頃の未来?」
「うーん、それはわりといつでもいいかな。一〇年後でも二〇年後でも。とにかく未来の世の中がどうなってるか、見てみたい。車が空を飛んでたりとかね」
「言われてみれば、その気持ちは私にもなくもないかも」
「でしょ? あと未来の自分にも会ってみたいな。そういうのSFチックで楽しそうじゃん」
タイムマシンの時点で既にSFだけどね。そう碧は思ったが、声に出してツッコむことはしなかった。未来の自分に会ってみたいなんて、考えただけで寒気がしてきそうだったからだ。
少し言葉に詰まった碧に、筧はとぼけたような表情を向けていた。自分は何もおかしなことは言っていないみたいに。
「いや、ごめん。その気持ちはちょっと分かんないわ。だって未来の自分に会うのって怖くない? しょぼかったり、思ってたよりも悲惨な状況にいたらどうすんの? がっかりしない?」
「そうかな? 単純に自分が将来どうなってるか、知りたくない? それに今の自分からは想像もつかないようなことをしてるかもしれないでしょ? それってちょっとワクワクするよね」
「まあ私は、どう考えてもお笑い芸人になってると思うんだけど」。そう得意げに言う筧を見ていると、それって決まった未来じゃない? どうやってもそこに行きつくんだったら、何をしても無意味な気がしない? と思っても、碧には言うことは憚られた。未来は見えないからこそ面白いなんて、筧に言ってもあまり意味はないように思えた。
店内はひっきりなしに人が入っては出ていく。座れなくても持ち帰りでドリンクを頼む客は、碧が想像していたよりもずっと多かった。
「でも、なんか意外」
「何が?」
「碧が江戸時代に行ってみたいって言ったこと。そういうキャラだとは思ってなかったから」
微笑みながら言う筧に、碧ははっきりと恥ずかしくなる。今思い返してみると、数分前の自分はまるで小学生だ。
「ちょっと、筧。私のこと、どういう風に思ってたの?」
「いや、なんかもっと近い過去に戻りたいのかなーって。だって、中高と帰宅部だったんでしょ? いつだったか、それを後悔してるみたいなこと言ってたじゃん」
「えー、そんなこと私言ったっけ?」
「言ったよ。本当、何気ない話だったから、碧は覚えてないかもしれないけど」
碧は記憶を辿る。でも、そんなこと本当に言った覚えがない。知り合ってから筧とは、数え切れないほど雑談をしてきているから、そこでこぼしたのだろうか。
覗き見るような筧の目に、ごまかしは通用しなさそうだと碧は感じる。だから、飾らない本心を伝えた。
「まあ、ALOや筧といる日々が楽しいからさ、こんな楽しいんなら、中高でも何か部活に入っておけばよかったって思うことはあるよ。でも、部活入ってたら、筧と出会えたかどうか分かんないじゃん。藍大にだって行ってなかったかもしれないし、部活の延長上で別のサークルに入ってたかもしれないしね」
「なるほど。バタフライエフェクトってやつだね」
筧が口にした用語が碧には分からなかったから、ぼんやりと笑って受け流す。後で調べようと思っても、一〇秒後には碧はその言葉を気にも留めなくなっていた。
「でも、それを言うなら、私も筧が未来を見にいきたいって言ったことは、ちょっと意外だったよ」
「何? 私がそんな過去を引きずってる女に見えた?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど、筧にはやり直したいことないの? 誰しも生きてたらそういうこと、一つや二つあるとは思うんだけど」
「何―? 元相方とのことー?」。軽い調子で言う筧に、碧は小さく首を横に振った。そんな意図は微塵もなかった。嘘じゃない。
だけれど、筧は微笑みながら「冗談だよ。冗談」と言葉を続ける。真意のほどは碧には分からず、筧が深く気にしていないことを願うしかない。
「まあ、我が生涯に一片の悔いなしって言えたらカッコいいんだけど、そうじゃないからね。そりゃやり直したいことはあるよ。中学のときに文化祭でやらかしたこととか、高校のときに好きだった先輩に告白して玉砕したこととか。今思い出しても恥ずかしくて、顔から火が出るくらい。でも、私はそれをやり直したり、なかったことにしたいとは思わないかな」
「どうして? 今や未来が変わっちゃうから?」
「それもあるけれど、恥ずかしい話や失敗談って宝でしょ? 将来テレビに出てエピソードトークをするってなったら、話すネタはいっこでも多い方がいいからね。そういう話こそ語り方によっては笑いが取れるし。みすみすネタを潰すような真似は、私はしたくないよ」
筧は養成所に入るときだけでなく、出た後も見据えていた。
見ている景色の広大さに、碧は敬意を抱く。一瞬でも過去を変えたいと思った自分が、浅ましくさえ思えてくる。
筧がそうしたのに続いて、碧もホットコーヒーに口をつける。少し温くなって、より美味しさが感じられた。
「それって、私やALOのことも話す?」
「当然でしょ。こんな美味しい話他にないもん。たとえ振られなくても、どんどん自分から話していきたいよ」
それはかえって番組の雰囲気を壊すのではと碧は思ったが、キラキラと目を輝かせている筧を見ると、別に言う必要もないかと思えた。
自分やALOのことが、筧を通じて世間に知られる。それは少しこっぱずかしい感じもしたが、それで筧がカメラに映る時間が増えるなら、存分に言ってほしいという気持ちにもなる。
きっと楽しそうに語ってくれるのだろうと、碧は想像せずにはいられなかった。
「だったらなおさらKACHIDOKI、優勝しなくちゃね。話のネタを増やすためにも」
「おっ、碧言うようになったじゃん。本当にその通りだよ。そのためにも、さっそくこの後のネタ合わせから、がんばんなきゃね」
そう言って二人は笑いあった。碧たちはこのコーヒーを飲んだら、すぐ筧の家に行ってネタ合わせをすることになっていたが、いつにも増して高いモチベーションで臨めそうだと碧は感じる。
忙しない店内の雰囲気は、碧たちに早く席を立てと言っていたが、碧はそんなことは気にならなかった。
筧と少しでも長くお笑いライブの余韻に浸っていたい。
上京してから初めてのクリスマスイブに、自分は充実した時間を過ごせていると、碧は思った。
(続く)
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