第30話 12月30日



 醤油ラーメンから、かすかに鶏ガラの匂いが香る。筧は「美味しそう」とこぼしていて、碧には自分も醬油ラーメンを頼めばよかった気がしてくる。


 でも、続けてテーブルに置かれた天津飯は立ち上る湯気に、あんかけが天井照明を反射して輝いていて、負けないくらい美味しそうに見えた。


 「いただきます」と手を合わせて、一口をレンゲで掬う。優しくて甘みのある塩味が、碧の心を温めた。


「碧さ、天津飯一口もらっていい?」


 ダメでもともとみたいに尋ねてきた筧に、碧の表情は綻ぶ。


「もちろんいいよ」と言って、筧にラーメンを食べているそのレンゲで天津飯を掬わせた。「うわっ、美味っ」とこぼす筧を見ると、天津飯を頼んだのは正解だったように思える。


 お礼に筧も醬油ラーメンを一口食べていいと言う。言葉に甘えて、碧もレンゲで一口大の小さなラーメンを作る。昔ながらの中華そばといった味に安心した。


「ねぇ、碧はさ、明日の朝の新幹線で帰るんだよね?」


 そう訊いてきた筧に、碧は「うん、そうだけど」と頷く。


 今日は一二月三〇日だ。碧は一二月三一日から一月三日までの年末年始を、実家で過ごすことになっている。帰省するのは夏以来だ。


「碧の実家って和歌山にあったよね。どんなとこなの?」


「別に普通の港町だよ。全国どこにでもあるような。でも、けっこう南の方にあるから、あまり雪は降らないかな。あとクエがよく獲れてね。たまに鍋にして食べることもあるよ」


「えっ、クエって高級魚じゃん。それをたまにでも食べるって、その時点で普通じゃないんだけど」


「まあそれはこっちに来てから初めて知ったよ。なんとなくスーパーで値段見たときに、こんな高いんだって驚いたもん」


 碧の地元の話や正月の過ごし方など、なんてことのない話をしながら、二人は夕食の時間を過ごす。店内には年末特有の忙しないような、慌ただしいような空気が流れ、碧たちを浮き足立たせる。


 天津飯はどれだけ食べ進めても飽きることなく美味しい。


 でも、碧は心に寄る辺ない思いを募らせていた。


 今日のネタ合わせは既に終わり、これを食べたらあとは二人は解散するのみとなっている。たった数日間会わないだけなのに、筧と離れ離れの状態で新しい年を迎えてしまうことは、碧には大きな損失に思えた。


 気がつけば、筧は醬油ラーメンを食べ終え、碧も天津飯の最後の一口を飲みこんでいる。


 水を飲んでいる筧を見ると、碧の気は急いた。何一つ解決していないまま、新年を迎えるのはきまりが悪いという思いが、まだ暖かい口を開かせる。


「筧、あのさ」


 碧が切り出すと、筧は「ん? どうした?」と軽く身を乗り出してきた。次の言葉を待つ瞳が、碧には深遠なものに映る。


「養成所の件なんだけどさ」


 今の二人にとって一番重要なトピックを持ち出したにもかかわらず、筧の態度は変わらなかった。もしかしたら、碧がその話をすることを予期していたのかもしれない。「私、決めたよ」と言っても、なお余裕めいた目をしている。


 碧は一つ息を吸ってから、告げた。


「私、養成所には行かない。藍大に、ALOに残るよ」


 それは間違いなく、筧の期待を裏切る言葉だった。重ねて誘っていた筧は、ショックを受けているかもしれない。


 でも、碧は取り消すことはしなかった。一度決めたことを、捻じ曲げるような真似はしたくなかった。


 筧はどこを見るでもなく、ただ「なるほどね」と言う。怒っているわけでもなければ、悲しんでいるわけでもない。ただ事実を淡々と受け止めた声だった。


「もちろん、筧と一緒に養成所に行くことも考えなかったわけじゃないよ。きっと養成所に入ってからも、出た後も私が想像もできないような大変なことがいっぱいあるんだと思う。でも、それを筧と一つずつ乗り越えて、少しずつ舞台に立てるようになったり、テレビにもちょっとずつ出るようになったり、もしかしたら賞レースで結果を残したり。一段一段階段を上っていく過程に、魅力を感じなかったって言ったら嘘になる」


「でも」。碧は語気を強めた。筧も目と耳を澄ましている。


 うるさいほどの店内の話し声も、碧の耳には入ってこなかった。


「私はまだALOにいたい。この前みんなでN-1の決勝見たでしょ? 私すごい楽しく感じちゃってさ。普段からALOはとても居心地がいいし、悩んだけど、私にはせっかく手に入れた居場所を、そう易々と手放すことはできない。それにまだ何もやり遂げてないしね。大学生会ももっといい結果を残したいし、交流ライブだってもっとウケたい。まだまだ私は、ALOでやりたいことだらけなんだよ」


 今日筧と会うまで何度も頭の中で考えた言葉を、碧は一気に吐き出した。できる限りの実感をこめる。


 コップに残っていた水を飲む筧。そのささいな挙動が、碧には大それたものに見えた。


「そっかぁ。私とは一緒に来ないかぁ」


 筧がため息交じりに言う。「ごめん」と謝りたくなるのを、碧は懸命に抑えた。


 自分なりに悩みに悩んで出した結論だ。いくら筧が少しがっかりしていても、簡単に考えを変えるわけにはいかない。


 筧は一つ息を吐くと、再び碧と向き合った。二つの瞳が、憑き物が落ちたかのようにすっきりしている。


「まあ、碧ならそう言うと思ってたよ。碧、ALOに合ってたもんね。自分から誘っておいてなんだけど、私も碧がALOに残るのを、どこか期待してた部分があったし」


「本当にいいの……? 四月になったら私と筧は離れ離れになるんだよ……?」


「いいも何も碧がそう決めたことでしょ。ちょっと私が寂しげな様子を見せただけで、ひっくり返す気? 碧が私の選択を尊重してくれたように、私も碧の選択を尊重したい。碧は四月からもALOでがんばりなよ。私も養成所でがんばるからさ」


 他意のない言葉に、碧の涙腺は刺激される。ALOに筧がいない未来が今になってはっきりと見えて、胸が痛くなる。


 ごまかすように、碧もコップに残っていた水を飲んだ。


 筧と再度目を合わせると、もう後戻りはできないという感覚が、肌に突き刺さる。


「じゃあ改めてだけど、三月のKACHIDOKI決勝と追い出しライブをもって、スケアクロウは解散ってことでいいね?」


 承知していたはずの現実でも、筧に言葉にされると、碧にはやっぱりショックで、ふいに心臓の鼓動を感じた。ここで同意したら、終わりまでのカウントダウンが始まってしまう。


 でも、碧は意を決して首を縦に振った。


 これは二人の合意の上での結論だ。ひっくり返すと、せっかくの決心が鈍ってしまう。それは碧にとって、筧と離れ離れになるのと同じくらい恐ろしいことだった。


「四月に碧と出会ってから一年くらいか。長いようで短かったなぁ。碧とコンビを組めてよかったよ。とは今はまだ言わない。まだ何にも終わってないからね。とりあえず来月のKACHIDOKI予選でいい結果を出せるように、戻ってきたらまたネタ合わせがんばろう」


 未来だけを見据えた筧のひたむきな姿勢が眩しくて、碧は素直に頷いた。


 筧の言う通り、まだ自分たちには舞台に立つチャンスが残されている。それが二回になるか、三回になるか、四回になるかは、瀬川たちも含めた自分たち次第だ。


 今度こそは自分たちが納得いく漫才がしたい。


 碧と筧は、もう一度目で会話をした。筧が何を考えているか、碧には手に取るように分かる。そんな錯覚がした。


「じゃあ、そろそろ店出よっか。会計は割り勘でいいよね?」


 ひと段落ついたと思ったのか、筧は財布を出して立ち上がろうとした。


 でも、碧はその瞬間「ちょっと待って」と呼び止める。今日のうちに、今年のうちに言っておきたいことは、まだあった。


「あのさ、三月の追い出しライブのことなんだけど」


「うん、どうかしたの?」


「もしよかったら、私にネタ書かせてくれないかな」


 一瞬だけ筧の目が大きく見開かれたのを見て、碧は突拍子もないことを言ってしまったと思う。


 でも、撤回はしない。これも今日筧に会う前から、言おうと決めていたことだった。


「筧が藍大をやめた後のことを考えるとさ、私一人になる期間もあるわけじゃん。戸田さんや西巻さんが組んでくれるとも限らないし。だから、私もネタ書けるようになった方がいいと思うんだ。これからもお笑いを続けていくために」


 それは碧には、ALOに残ることと同じくらい大きな決断だった。もちろんいくらネタ合わせを重ねてきたからといって、すぐにネタを書けるようにはならない。


 でも、ここで殻を破らなければ、自分に先はないと碧は感じていた。


 碧の決心が伝わったのか、筧はすぐに表情を緩める。まるで碧がそう言うのを、ずっと待っていたみたいに。


「分かった。追い出しライブのネタは碧に任せるよ。確かに言われてみれば、いつまでも私がネタを書くわけにもいかないもんね。その代わり、面白いネタにしてよ。舞台でスベるの、私は嫌だからね」


 筧の言葉は、明確なプレッシャーとなって碧にのしかかった。人前で披露するに耐えられるネタが、自分に書けるだろうか。


 煮え切らない碧の返事にも、筧は目元を緩めたままでいた。


「なんてね。冗談だよ、冗談。私も一緒になってネタ練ってくからさ。とりあえずそんな気負わないで、碧の書きたいように書いてくれればいいよ」


 筧はフォローのつもりで言ったのだろうが、碧の心にはますます負担がかかる。


 書きたいものなんてまだ見つかっていない。そのときになれば思いつくのだろうか。


 不安を打ち消すように、碧は笑顔を取り繕った。うまく笑えていないと分かっていても、笑顔でいれば気持ちも上向くと思いたかった。


 二人は会計を済ませて店の外に出る。夜の空気は手加減なく道行く人々を縮こまらせ、商店街にはまだいたるところで明かりが煌々とついている。


 二人は最後にもう一度向き合った。そして、今しか言えない言葉を言う。


「じゃあ、碧。ひとまずは実家でゆっくりしてってね。よいお年を」


「うん、筧もよいお年を」


 短い言葉を交わすと、筧は踵を返して駅へと向かっていった。碧はその後ろ姿を見えなくなるまで見送る。


 碧が駅に入っていったのを見届けてから、碧も振り返ってアパートへと向かった。帰ったら明日からのために、荷物を用意しなければならない。


 帰路につく碧の背中を、夜の風がふわりと押した。



(続く)

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