第28話 キムディール
紙三角形は最初は少し振るわなかったものの、徐々に盛り返し、最終的には爆笑と言っていいほどの笑いを取っていた。トップバッターの重圧を跳ね返すような漫才に、レベルが高い決勝戦になることを碧は予感する。得点も六一五点と高評価だ。
でも、西巻は納得がいかないという顔をしていた。理由は何となく碧にも分かる。
七人の審査員全員が九〇点をつけたとしたら、合計点は六三〇点を超える。六一五点は必ずしも、上位三組で競われるファイナルラウンド進出を意味しない。
そう考えると、西巻が少し気の毒にも思えてくる。決勝に進出しただけでもものすごいことなのだが、推している芸人の優勝が難しくなったことは、やはりくるものがあるだろう。
でも、次に登場したコンビも、その次に登場したコンビも、紙三角形に勝るとも劣らない笑いを取っていて、漫才を見ている間は碧は何も考えずに笑っていた。
筧も西巻も、もちろん瀬川や戸田も大口を開けて笑っている。五人を邪魔するものは部屋の中には何もなくて、碧は心地いい気分でテレビを見ていた。一人で決勝戦を見ていても、笑うことはできただろうが、ここまでの居心地のよさは感じないだろう。
誰一人欠けずに五人が揃った空間が、碧には簡単に手放したくないものに思えた。それこそ決勝戦が日を跨いでも続いてほしいと思うくらいに。
「いやぁ、終わったなぁ。今年もめっちゃ面白かった」
つけっぱなしのテレビが次の番組へと切り替わるなか、瀬川が満足げに言う。部屋には一大イベントを見届けた達成感や、ほんの少しの喪失感が漂う。
「もちろん全ての組が面白かったんですけど、終わってみればハッピー・バースデーのための大会でしたね。ファーストラウンドのトリで出てきて一位になったかと思うと、その勢いのままファイナルラウンドでも七票中六票を獲得して。プレッシャーをものともせず優勝したのは、素直にカッコいいと思いました」
「でも、インパクトで言えば紙三角形も負けてなかったですよね。重圧のかかるトップバッターなのに、最初からウケて。もし他の順番だったら、ファイナルラウンドいってたんじゃないですかね」
「まあラストイヤーでトップバッターはちょっと不運だなとも思ったけど、爪痕は残したと思うよ。これから他の番組にも呼ばれんじゃないかな」
「爪痕を残したって意味で言えば、キムディールもそうじゃないですか? 初めての決勝進出なのに、いきなりファイナルラウンドまでいって。私的には正直、優勝したハッピー・バースデーよりも面白かったんですけど」
「それ、私も思った! せめて最後一票ぐらいは入ってもよかったよね!」
「まあ最後、ハッピー・バースデーにかっさらわれたのが大きかったな。でも、俺も筧と上野が言うことは分かるよ。すっげぇ面白かったし、いつかは優勝してもおかしくないと思う」
リラックスした空気の中、五人は感想を言い合う。余韻に浸るかのように、まだ誰一人として帰ろうとはしていない。
決勝戦の中継の次に始まったバラエティ番組は、N-1に便乗した企画を放送していて、碧にはまだお祭りが続いているような気がした。
「ああ、今日は楽しかったなぁ。来年もさ、またこの五人でN-1の決勝を見れたらいいよな」
三五〇ミリリットルの缶ビールを三本飲んで、酔いが回ってきているのだろうか。瀬川がふとしみじみと呟いた。碧も初めて来た部屋に感慨深い気持ちを抱く。
でも、瀬川の呟きにおかしなところを見つけたのか、すぐさま戸田がツッコんでいた。
「いや、五人て。来年はまだ見ぬ新入生も加えて、もっと大勢でN-1見ましょうよ」
「それ、俺大丈夫か? めんどくさいOBだと思われたりしねぇかな」
「まあその可能性は大いにありますね。今でさえ酔ったらいつもの倍絡んできますし」
「いや、西巻。そこは否定してくれよ。確かにちょっとしつこいかなって自覚はあるけど」
「いや、自覚あるんですか」
戸田が再度ツッコんだのを機に、五人の間には小さな笑いが起きる。さっきまでの決勝戦みたいな計算された笑いもいいけれど、こういう気心知れた相手同士で自然発生的に生まれる笑いは、碧にとって同じくらいの価値があった。
それでも、微笑んでいる筧の心中は違うかもしれないと碧は思う。筧が来年もALOにいるかどうかはまだ分からない。
「でも、瀬川さんが卒業して就職しても、いつかはまた五人で会いましょうよ。お笑いのライブDVDとか見ながら、お酒なんか吞んじゃったりして」
他の誰かが言えば、すぐに「そうだね」と受け入れられそうな言葉でも、筧が口にすると、ほんの一瞬だけれど、部屋は静まり返ってしまう。
筧がお笑いの養成所に行きたがっていることは、既に瀬川や西巻も知っていた。どう思っているのか聞かれたことも、碧にはある。その度に碧は、明確な返事をできないでいた。
「そうだな。その頃になれば、筧も上野も酒吞めるようになってるだろうしな」
瀬川が何とか相好を保ったまま応えたから、部屋の雰囲気は険悪にならずに済んだ。碧もそんな日は本当に来るのだろうかという思いを、胸の奥に引っ込める。
西巻が「瀬川さん、卒業した後もこの部屋に住むんですか?」と聞き、瀬川が「ああ。だってこんな広くて、そのわりに家賃が高くない部屋、なかなか見つからないだろ」と答える。
それを機に会話は回復し、五人は再び心落ち着く時間を過ごせた。
テレビは「何も考えなくていい」と言うように、笑いを提供し続けている。
でも、碧には今はよくても部屋から一歩出たら、自分の脳では処理できないほどの考えが、一気に押し寄せてくる気がしてしまっていた。
歩行者信号が青に変わって、人々が一斉に歩き出す。足早に改札に向かおうとしている人、寒さに身体を縮こまらせている人。
行きかう人々はまさに十人十色だが、碧には全ての人の足取りが、心なしか弾んでいるように見えた。駅前に流れるはっきりと浮かれた空気。
クリスマスイブの日曜、碧は新宿駅南口で一人立っていた。初めて来たときはキョロキョロしてしまい、田舎者丸出しだったのだが、さすがに上京して半年以上も経ち、何回か訪れるうちに少しずつ慣れてきている。
もちろん、ただあてもなく行きかう人々を眺めているわけではない。今日も碧は、駅の出口で筧がやってくるのを待っていた。
筧がやってきたのは、碧が南口に到着して一〇分ほどが経ってからだった。「おはよう、碧! 待った!?」とかけてきた声はみずみずしくて、交流ライブのことをもう引きずっていないように思える。
初めて来たときとは違って、今日は筧も集合時間に間に合っていたから、碧も「全然待ってないよ」と微笑みながら答えた。
簡単な会話を交わして、歩き出す二人。隣を歩く筧の足取りの軽やかさは、碧にはまるで羽が生えたように見えた。
たとえ今日がクリスマスイブでも、二人の行くところは一つに決まっていた。筧に続いて、碧はエスカレーターと階段を上る。
目の前に現れたのは、芸人のグッズがこれでもかと陳列されたグッズ売り場と、何回来てもホテルの受付と見間違うチケットカウンター。
ミルネtheかしもとは、休日なだけあって大きく賑わっていた。ロビーにいる人は、碧が訪れた何回かの中で一番多い。
それもそのはず、これからの回はN-1の決勝に進出した芸人が、二組も登場するのだ。N-1の興奮が冷めやらないというように、チケットカウンターには長蛇の列ができている。もしかしたら今日は満席になるかもしれない。
その証拠に碧たちが前売り券をもぎって劇場内に入ったときには、既に席は半分ほど埋まっていた。
少し端の方の席に二人は座る。ひっきりなしに人が入ってくる様子は、碧があまり味わったことのないものだった。
若手芸人が前説を終えたときには、本当に劇場内は満席となっていた。どこを見ても人がいる状況に、碧は自分がネタをするわけでもないのに、少し緊張感を覚えてしまう。
暗転する客席。舞台の幕が開く。
スポットライトが照らす舞台に登場したのは、キムディールの二人だった。全員が待ち望んでいたであろうコンビの登場に、客席からは盛大な拍手が飛ぶ。碧も筧も、N-1で三位に入った二人を称えるように手を打ち鳴らした。
挨拶をしてもなお拍手は続き、舞台上の二人は少し照れくさそうにしている。
でも、その長い拍手も二人は「海外の映画祭みたいですね。行ったことないですけど」と、しっかりいじって笑いに変える。碧たちも小さく笑う。
笑っても許される空気を一瞬にして作られて、客席の誰もが喜んでいるのが、碧には分かった。
軽く客いじりをした後、キムディールが始めたのは、N-1の決勝でも一本目に披露した「タイムマシンがあったらどの時代に行きたい?」というネタだった。
ツッコミの外池の口から「タイムマシン」という言葉が出た瞬間、声に出さずとも、客席が盛り上がったのを碧は感じる。
誰しも一度は考えたことがありそうな空想を、キムディールは畳みかけるようなボケと、スピーディーなツッコミで、見事に漫才に昇華していた。
安定感と爆発力を兼ね備えた二人の漫才は、客席をいきなり火がついたように笑わせる。
満席の状態でしかも笑い声が絶えることはなかったから、碧には自分が大きな渦の中にいるように思えた。劇場が揺れているのではと錯覚するほどだ。反応の大きさに、キムディールの二人も生き生きとしだす。
次に出てくる芸人は少しやりづらいかもしれないなとか、そんな余計なことを考えずに碧は笑った。隣では筧が涙が出そうなほど爆笑していた。
(続く)
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