第16話 カフェ、映画、焼肉
N-1の一回戦は、散弾銃のようなサイクルで出場者がネタを披露しては去っていく。
だから、控室にもそう長くはいられない。もう一〇分後には次の出場者が入ってくるから、碧たちは余韻を味わうことなく、荷物を持って出ていかなければならなかった。
エレベーターから降りて、スザックスカルチャーホールを後にする。
外の光景は、行きかう人や車が入れ替わっただけで、本質は入る前と何も変わっていない。碧たちの奮闘なんてなかったかのように、現実は今日も平常運転だ。
あまりの変わり映えのしなさに、碧には自分たちがN-1グランプリに出場したこと、舞台で漫才を披露したこと、エントリー総数数千組のうちの一組になったことが、すべて夢の中の出来事のようにも思える。
でも、筧に続いて歩き出すと、両足はしっかりと地面を捉え、湿っぽい風が肌にまとわりついてきた。
一歩一歩歩くたびに、碧の中で十数分前の出来事が、紛れもない現実のものとして刻印されていく。
適当に歩いて見つけたコーヒーチェーンに入り、アイスコーヒー片手に二人は話す。
N-1の話、漫才の話もそこそこに、自然とこれからどうしようかという話になる。碧も筧もこのまま家に帰りたくなかった。
近場でやっている映画を二人して探す。ようやく身を落ち着けられて、碧は慌ただしかった時間を反芻したけれど、筧はもう気持ちを切り替えたように見えた。
でも、「これなんてどう?」と、スマートフォンの画面を見せてくる筧を、碧は迷わず許す。感傷に浸る時間は人それぞれだ。
コーヒーチェーンを碧たちが出たときには、高く昇っていた太陽は高層ビルにその姿を隠してしまっていた。
一〇分ほど歩いて、ビル一棟を丸々買い上げた大型映画館に辿り着く。
観るのはクラスでは目立たない存在だった女子高生が、学校一のイケメンに目をつけられて、恋人同士になっていくという、いかにもな青春キラキラ恋愛映画だ。特に観たい映画のない碧に、筧が勧めてきたのだ。
筧が甘々な映画を観ようと言ってきたのが碧には意外で、筧の知らない一面が見られた気がしていた。
スクリーンでは、人気アイドルグループのメンバーが演じる主人公が、目立たないという設定に無理があるほど、可愛らしい女優演じるヒロインに、シロップの原液を飲ませるがごとく、甘い言葉をささやいている。前後左右にいる自分たちと同世代の女性、おそらくは主演俳優目当てだろう、の黄色い歓声が碧には聞こえてくるようだった。
だけれど、碧は目の前で繰り広げられている物語に、そこまで入りこめなかった。
それは過去のヒット作をなぞるようなストーリーや、好意的に解釈すれば初々しいと言える主演俳優の演技ではなく、碧が置かれた状況に起因していた。
今、自分がぼけっとスクリーンを眺めている瞬間にも、スザックスカルチャーホールの舞台では出場者たちが、面白いと信じてやまないネタを披露している。
そう思うと、胸は相変わらずけたたましく鳴り、自分がここにいていいのか碧には疑問に思えた。
どうかウケないでくれ。私たちを二回戦に進ませてくれと、舞台を降りた直後とは真逆のことが頭をよぎる。きっと何をしていても、このヤキモキする思いは収まらないのだろう。
隣にはスクリーンを食い入るように見ている筧がいる。
碧もスクリーンを眺め続けて、ただ映画が進むに任せた。頭ではあと何分で終わるかばかり考えていて、せっかくの映画に失礼だなと思った。
「つまり私的にはさっき観た映画は、よくも悪くもなかったってこと。でも、主演の人が何度も胸キュンするようなセリフを言っていて、ファンの人は満足したんじゃないかな。一番お金を落としてくれる人を楽しませることができたんだから、この手の映画としては成功してると思うよ」
そう映画の感想をまとめた筧に、碧も「そうだね」と頷く。N-1が気になって、映画どころではなかったから、あまり話を広げられなかった。
網の上ではロースやカルビが、食欲を刺激する音を立てている。
焼肉チェーンは休日の夜ともあって満席で、あちこちのテーブルから周囲なんて気にしていないみたいな話し声が聞こえる。
碧たちがテーブルに座ったのも、入店してから一時間後のことで、碧は他の店でもいいと言ったのだが、なぜか筧は「今日はもう焼肉の口だから」と言って譲らなかった。
筧も今日の出来に手ごたえがあったのかもしれない。
まるで自分たちへのご褒美みたいで、碧は一時間近い待ち時間を平気で待った。
焼き上がった肉を今日は碧が取り分けて、口に運ぶ。以前、大学の最寄り駅の店で食べたときとまったく同じ味がして、チェーン店なのだと碧は思わされる。いい意味で期待を裏切らない。
目の前の筧は肉やご飯を食べながら、何度もスマートフォンを確認している。一人でご飯を食べているかのように。
でも、その気持ちは碧にも痛いほど分かる。
N-1一回戦、今日の分の出場者は、碧たちが席が空くのを待っている間に、すべてのネタを終えた。
N-1はその日のうちに、結果が発表される。それは一時間後か二時間後かは分からない。だからこうして筧はこまめにスマートフォンを覗いているのだ。
何の反応もせず、再びスマートフォンを机に置く筧。結果はまだ出ていないようで、碧はその度に助かったような、追い詰められているような複雑な心地を抱いていた。
「でさー、私のバイト先に白里さんっていう女の先輩がいるんだけどさ、その人がとにかく仕事ができて。レジ打ちも品出しもなんでも一人でできちゃうの。もう私たちなんかいらなくない? って思うくらい」
筧がアルバイトの話をしだしたときには、既に碧たちがテーブルに着いてから一時間が経過していた。碧も食いつくほどには興味を持てなかったけれど、「うん」と頷く。
二人が何度スマートフォンを確認してみても、今日のN-1一回戦の結果は、出ていなかった。
話し声や気配から、自分たちが入ってきたときにいた客は、全員帰ってしまったのだろうと碧は察する。
肉も野菜もデザートも食べ終えて、テーブルの上には店員から差し出された緑茶しかなかった。去り際の「ごゆっくりどうぞ」が本心でないことは、碧にだって分かる。今席が空くのを待っている客はいないけれど、碧は気まずさを感じる。
視界の端に捉えたスマートフォンに、早く結果を教えろと念じる。
「でも、その人身分は私と同じバイトでさ、最低賃金に毛が生えたような給料で、そこまでやる必要なくないですかって、ある日聞いたのね。そしたら白里さん、なんて答えたと思う?」
「えー、なんて?」
「雇ってもらってる以上、これくらいやるのは当然だって言ったの。私、それ聞いてこんな真面目な人、本当に世の中にいるんだって思っちゃった」
筧の話にはオチがなかった。ただその白里という先輩との会話を、碧に報告しただけ。
何の面白みもない話だったけれど、碧はそれでもよかった。カフェや映画館、それにこの店で名前を呼ばれるのを待っている間、もう漫才とかお笑いの話はあらかた出尽くしていた。
無言で向き合うのは、お互いきまりが悪い。
時間を埋めるだけの空疎な会話でも、テーブルに座っていられる理由になれば、構わなかった。
その後もいくつか散発的な会話をした後、筧は再びスマートフォンを手にした。
画面を見るなり、差し迫ったような目を碧に向けてくる。そのアイコンタクトだけで、筧の意図するところが分かり、碧もスマートフォンを手に取った。N-1グランプリの公式ホームページを開く。
それは、トップページの一番目立つところに書かれていた。
「9/19 東京一回戦 審査結果のお知らせ」
おそるおそる碧がタップすると、飛んだページにはずらりとコンビ名が羅列されていた。その横に並ぶ敗退、敗退、敗退の文字。たまに出現する赤い文字が、小躍りするように二回戦進出を伝えている。
でも、一対五くらいでやはり敗退の方が多い。
アマチュアのコンビはともかく、事務所に所属している芸人まで容赦なくふるいにかけられていて、碧はスクロールするたびに胃がキリキリと痛む。
だけれど、手を止めるわけにはいかない。
左端に書かれているブロック名がF、G、Hと近づいてくるたびに、心臓が耳に届きそうなほどバクバクと鳴る。
そして、碧はその文字列を見つけた。いや、見つけてしまった。
「スケアクロウ(アマチュア) 敗退」
(続く)
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