第15話 エントリーNo.7133
「ね、ねぇそうだ、碧。N-1の一回戦が終わったら、また焼肉食べ行かない?」
沈黙に耐えかねるように口を開いた筧の言葉を、碧は意外に感じた。てっきり筧は、これからの本番に集中していると思っていた。
「何? もう終わった後の話?」
「身もふたもない言い方をすればね。でも、碧だってご褒美があった方が、がんばれるでしょ?」
ご褒美というのは、碧の好きな焼肉を指している。筧にとってはそのつもりなのだろう。
確かに筧の提案は、碧にとってもご褒美になりえるものだった。どのみち、今日終わってから何を食べるのかは決まっていない。
「うん、いいよ」と碧が頷くと、筧も表情を緩める。小さな変化が、碧の心にもわずかな平穏をもたらした。
「あっ、でも本番終わってすぐは、晩ご飯には早すぎるか。どうする? 近くの映画館で、映画でも見てから行く?」
筧の声は弾んでいた。「それはその時になったら考えよ」と言いながら、碧もまんざらではない。
目の前にニンジンをぶら下げられた馬じゃないけれど、碧の胸には闘志が再燃していた。
ウケて、筧と一緒に気持ちよくご飯を食べよう。そう思うと、緊張なんてしていられない。
でも、時間はひどくゆっくり流れて、碧たちを焦らす。早く受付時間になってくれと、碧は繰り返し心の中で唱えた。
スザックスカルチャーホールの舞台裏はわりあい広く、出番を待つ碧たちIブロック後半の五組が立って待っていても、まだ余裕があるくらいだった。
高い天井にかかる二つの照明に照らされて、舞台までとはいかなくても明るい。
でも、ここまで来てしまうと、もうネタ合わせはできず、碧たちはただ出番を待つしかない。
一組一組、名前を呼ばれるごとに低くなっていく舞台裏の人口密度。舞台から聞こえる出場者の声は、碧の緊張をさらに駆り立てる。
ぽつりぽつりと感じられる観客の笑い。でも、碧には何が面白くて何がそうでないのか、もはや分からなくなっていた。頭は自分たちのネタでいっぱいだ。
聞き流そうにも、一組二分という持ち時間は想像していたよりも長く、碧の心を焦れさせる。早く舞台に立ちたいような、まだ舞台裏にいたいような、相反した気持ちがせめぎ合っていた。
時間は確実に過ぎ、気がつけば舞台裏には碧たち二人しかいなくなる。舞台から聞こえる二人の男性の声が、近くて遠い。
碧は、筧の顔を見ることができなかった。
きっと筧も緊張している。お互い緊張した顔を見合って、さらに緊張するという悪循環には、はまりたくなかった。
二時間にも思えるほどの二分間はようやく終わり、前のコンビが反対側の舞台袖に引き上げていく。その姿は、そそくさという言葉がふさわしく、碧はこれから立つ舞台の恐ろしさを改めて知った。
「では、続いてはエントリーナンバー七一三三番、スケアクロウです! どうぞー!」
司会のベテラン芸人が、碧たちのコンビ名をコールする。
それを機に碧たちは、舞台へ一歩を踏み出した。先陣を切って「どーも!」と、声をかける碧。
スザックスカルチャーホールは、大学の一角や東南会館と違って、ホールの名にふさわしい空間だった。放射線状に広がる座席には、赤い椅子が備えつけられている。高い天井に、壁に埋め込まれたスピーカー。最前列に座ってバインダーを持っている三人の審査員を除けば、観客は二〇人ほどといったところか。
おそらくは他の出場者の知り合いだろうけれど、この人たちは全員五〇〇円の入場料を払って、席に座っている。
金銭が発生しているという事実は、空気をよりシビアなものにしていた。
スベった直前の出場者を、碧は軽く恨む。そんなことをしても、何もならないと知っておきながら。
「どうも、スケアクロウです。よろしくお願いします」
二人が頭を下げても、今回も拍手は起こらなかった。事前に言われているかのように。
頭を上げたときに見た、何の期待もされていない視線に、碧は新鮮に傷つく。
でも、碧は真新しい傷を心の奥に押し込めて、ネタを開始した。今はコンマ一秒でも惜しい。
「いや、最近ですね、私少し運動不足だなと思っていまして」
「確かに意識しないと、日頃運動はしないですからね」
「だから、運動不足解消のためにジムでも行こうかなと思ってるんですよ」
「なるほど、ジムですか」
二分間でできることは限られている。だから、二人は前置きを手早く済ませて、すぐさま漫才内コントに入った。碧が体験入会者、筧がインストラクターという役回りだ。
まずはジムに来た目的として、「増えてしまった体重を、今の五分の一にまで落としたいんです」と一ボケ。すかさず筧が「いや、それだと幼稚園児レベルになりますよ」とツッコむ。
だけれど、会場は水を打ったように静かなままだった。今のやり取りが笑いどころだと、気づいていないかのように、さざ波一つ立たない。
碧だって分かっている。
前の組も、その前の組も、その前の前の組も、全員アマチュアだからかスベり倒していて、会場の空気は、漫才をやるにはほとんど最悪であることを。これだったら、ブロックのトップバッターの方がマシだった。
それでも、自分たちをすりつぶそうとする空気にもめげることなく、碧たちは漫才を続ける。
ランニングマシーンに乗って、走るふりをする碧。沿道に手を振る仕草をしたり、かかってもいないタスキを取って険しそうな表情をしてみたり、はたまた両手を掲げて、膝を伸び縮みさせて、一人で波を模した動きをしてみたり。
動き続けていると、たった三〇秒でも息が上がり始める。ネタ合わせのときは平気だったのに、やはり舞台上ではそうはいかない。
だけれど今度は、客席の前から五列目の上手側に座った女性が小さく笑ったのが、碧たちには見えた。
碧たちとは親子ぐらい年が離れている様子の女性は、鈍重な会場の空気に飲まれて、すぐに笑うのをやめてしまったけれど、少なくとも碧たちには、一つのきっかけにはなる。
事態がわずかでも良い方向に変わっていく、些細なきっかけには。
極小の笑いは碧たちの力になって、碧の心を添え木のように支える。碧たちは二分間という、舞台に上がってしまえばあっという間に過ぎていく時間に、今持てる力の全てを注いだ。
スクワットのくだりでは、肩を回転させることでボケ、エアロビクスのくだりでは、昔の女性タレントがデビュー前に披露した、てんでリズム感のないダンスでボケる。筧のツッコミもネタ合わせのときの冴えを見せていて、客席には少しずつ表情を緩める客が出始める。まるでここは笑っていい場所なのだということを思い出したかのようだ。
ゆっくりゆっくりとだったが、歯車が嚙み合っていく感覚は、今まで碧が味わったことがないものだった。
今になってようやく、自分たちの本来の力を出せている。ようやくウケ始めたこの段階で、規定の二分が過ぎてしまうのが惜しい。ネタはもともと、四分間に耐えられるだけの尺はある。
もう少しだけでいいからこの舞台に立っていたいと、碧は心の片隅の片隅で考えていた。隣に立つ雰囲気からして、おそらく筧も。
だけれど、手ごたえを得始めている碧たちとは裏腹に、最前列に座る審査員の目は、もれなく厳しい。
一日に一五〇組以上の漫才を見て審査しなければいけないから、いちいち笑ってもいられないのだろう。微動だにしないその姿は、減点方式で粗探しをしているようにも、碧には見えてしまう。もはや楽しい楽しくないの次元に、彼ら彼女らはいない。
碧もやりづらさを覚えたが、全ての出場者は同じ条件なのだ。そのなかで二回戦に進む者がいる以上、不平不満は言っていられない。
自分たちにできるのは、面白いと思うネタを完遂することだけだ。
「どうもありがとうございました」。長かったような、一瞬だったような二分間を終えて、碧たちは頭を下げる。
拍手はない。円滑な大会運営の妨げになるからだ。
だけれど、会場を包む空気がどこか大らかになったように、碧には感じられた。何人かの目は細められていて、心の中で拍手をしてくれているのだろうと感じ取る。爆笑を取れなかった自分たちには、それだけで十分だ。
余韻に浸る暇もなく、舞台からはける。舞台裏には、次のブロックに出場する前半五組が、いつの間にかやってきていた。
誰もが一様に、控室に引き上げていく碧たちを見ている。その眼差しは不安そうで、数分前の碧と合致していた。
彼ら彼女らに何を言えるだろう。自分たちはライバル同士だ。誰かがウケれば、誰かが落とされる。
でも、碧は緊張した面持ちの出場者たちに、自然と「がんばって」と、心の中でエールを送っていた。少しでいいからウケて、悔いのない舞台になりますように。
そう思えたのは、自分たちがほんの少しでも、ウケた感触があったからだった。
(続く)
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