第17話 間違ってなんかない
「スケアクロウ(アマチュア) 敗退」
その一文を見たとき、碧の脳はシャッターを下ろすように塞がれた、なんてことはなく、ただ事実をありのまま受け止めていた。
自分たちは負けたのだ。面白いかどうかという明確な審査基準のもと、きちんと人間の手によってふるい落とされたのだ。年末の決勝で連呼される、応募総数何千組の一部になったのだ。
そして、それは誰にも顧みられることはない。きっと今頃、自分たちの応募書類はシュレッダーにかけられることだろう。二千円のエントリー料は経費として消えるのか、優勝賞金の一部になるのか。
いずれにせよ、碧たちのN-1への挑戦は、たった一回舞台に立っただけで終わりを告げた。二分間という短い時間ですべてが判断された。それ以上でも、それ以下でもない。
「……私たちウケてたよね……?」
一瞬のような、長時間のような沈黙を経て、筧の口から出たのは悲痛な確認だった。声になる手前みたいな声に、碧は筧がN-1に懸けていた思いの大きさを喰らう。
自分たちはウケた。観客だって何度か笑わせた。
でも、それは今までの自分たちと比べての話だ。碧が聞けたのはほんの一部分の漫才でしかない。聞けなかったところで自分たちよりもウケた出場者が、数十組はいたのだろう。
その証拠に碧たちのすぐ下、つまり直後に登場した出場者の欄には、通過の赤い文字がゆるぎなく記されている。彼らは碧が願った通り、がんばったのだ。
でも、今の碧はそう願った自分を殴りたい。他人の心配なんてしてる場合かと、一喝したい。
カフェで時間を潰している間も、映画を観ている間も、席が空くのを待っている間も、二回戦進出に値するだけの漫才を披露する者はいた。
今日取ったすべての行動が間違いだったようにさえ、碧には思えてくる。そんなの、結果論に過ぎないのに。
「私たち、何も間違ってなかったよね……?」
スマートフォンに目を落としたままの碧に、筧は続ける。
そんなこと、碧には分かるはずもない。動きの多いネタで勝負するという判断が間違っていたのかもしれないし、何度もネタ合わせを繰り返しても、まだ詰められていなかった部分があったのかもしれない。
でも、自分たちが費やした時間は間違っていない。そう碧は思いたかった。何もかもが無駄に変わる気がして怖かった。
縦に長いテーブルでは、手を伸ばしてみても、座ったままでは碧は筧に触れられない。
何かを伝えるには、言葉に頼るしかなかった。
「大丈夫だよ。私たちは何も間違ってなんかない。実際、二回戦には進めなかったけど、今日は今までで一番ウケてたわけだし。このまま歩みを止めなければ、いつかいい結果になって返ってくるよ」
自分で言いながら碧は思う。
いつかっていつだ? それは自分たちが大学にいる間に訪れるのか?
口から出た言葉は文字通り口先だけで、内実は一個も伴っていない。それは碧にも分かっていた。
分かったうえで、じっと筧を見つめる。筧の顔は、こんなときでも精悍だった。
もっと泣き出しそうなほど歪んでいてもいいものを、そうはしない彼女の気丈さに、碧はチクリと胸が痛くなる。こんな取り繕った表情、二度と見たくない。
「そうだよね。諦めず続けていれば、失敗に思えるような出来事も、いつかは成功のために必要な過程だったって、思える日が来るかもしれないしね。みんな悔しい思いをして、それでも立ち上がって歩き出すんだ。私たちだけがへこたれてちゃいられないよ」
筧は小さく笑った。人を癒やす効果なんて微塵もない、痛々しいほど切実な笑みだった。
碧も無理くり笑顔を作って返す。
自分に合わせて作られた偽りの笑みだということは、筧には分かっていたのだろう。
碧は情けなくなる。でも、この情けなさの原因は自分たちの実力不足でしかない。他の出場者や審査員のせいでは断じてない。
すっかりぬるくなった緑茶を飲み干して、「そろそろ行こっか」と筧が言う。碧も言葉少なに頷いた。
もっと実力を上げなくては。もっと技術を、度胸を、表現力を。
筧が食事代の三分の二を、残りの三分の一を碧が支払って、二人は外に出る。
碧がふと見上げると、半分に欠けた月と、ひときわ輝く一等星だけが、東京の空には浮かんでいた。
碧がいくら悔やんでいても、日々は滞りなく流れて、あっという間に後期がスタートしていた。
履修登録も九〇分間の講義も、前期で大分慣れたとはいえ、何をしていても碧の頭には、大学生会とN-1の記憶が錨のように沈み続ける。
筧とも会えているし、一一月の学祭に向けてネタ合わせもしているが、それでも二人の歯車はどこか噛み合っていなかった。
少なくない時間をかけた渾身のネタが、ものの二分でバラバラに砕け散った。そのことが碧の、そして筧の心にも影を落としていた。
ネタ合わせをする筧の表情からは余分な笑顔は消えて、入っている気持ちが明らかに空回りしていた。
だから、碧も漫才のこと以上の会話はできない。新ネタの進捗はどうかなんて、聞けるはずもなかった。
「新ネタができた」と筧から連絡があったのは、N-1の一回戦からちょうど二週間が過ぎた頃だった。学祭の本番まで一ヶ月を切って、毎日のようにソワソワしていた碧は筧からのラインに、「おつかれさま」と労う猫のスタンプを返す。
金曜日はALOの活動日だ。でも、筧は今すぐにネタを見てもらいたかったらしい。
二人は駅前のカラオケボックスで落ち合うことにした。二人とも三限に講義は入っていなかったから、ちょうどよかった。
碧が店先で待っていると、ほどなくして筧もやってきた。ファンデーションを塗っていても、筧の目元にはうっすらとクマが浮かんでいた。
二階の部屋を取り、L字型に置かれているソファに別々に座る。
二人分のドリンクを注文すると、筧はさっそく話を切り出した。
「ごめんね。ネタ作んの時間かかっちゃって」
「いいよいいよ。私たちのネタは筧にしか書けないんだし。むしろもっと時間かかるかもしれないって思ってたから、今はちょっとホッとしてる」
ネタ作りの苦労を碧は知らない。だから筧に対してリスペクトを示すために、頬を緩めた。
碧にとっては自然な笑顔のつもりでも、筧は責められていると感じたのだろう。少しバツが悪そうな表情は、会ったときから抜けていない。
「ありがと。じゃあさ、さっそく次のネタなんだけどさ、訪問販売のネタにしてみた。インターネットとか贈答品とかの。ちょっと古いかな?」
「ううん、いいと思う。なんか一周回って新しい感じがある」
筧はバッグから二枚のクリアファイルを取り出した。キャラクターもので、きっと普段から使っているのだろう、一枚を碧に渡してくる。
受け取ると、中にはA4サイズの紙が三枚入っていた。今までで一番長尺のネタだと、碧は直感する。
取り出してみると、一枚目の一番上には「漫才 訪問販売」と書かれていた。
規則正しく整列した文字を、碧は目で追う。隣で祈るような視線を向けている筧を、視界の端に入れながら。
「どう? 面白そう?」
「面白い?」ではなく、「面白そう?」と訊かれたから、碧は筧の心情を察した。大学生会やN-1のことで、焦りが生まれてしまっているのだろう。目標であるKACHIDOKI優勝のためには、もう少しの猶予もないと思っているのかもしれない。
そんな筧の心情は、新ネタにも現れてしまっていた。明確に言語化はできないけれど、今までのネタに比べてどこか収まりの悪い感じが碧にはする。
でも、せがむような表情の筧を見ると、直接的な言葉を使うのはためらわれた。
「うん、いいと思うよ。ちゃんと面白さのツボを押さえてるって感じ」
自分で言っていても訳が分からない言葉を、筧は額面通り受け取ったようだ。ほっと胸をなでおろしていて、碧にはかすかに罪悪感が芽生える。
筧を傷つけるようなことなんて、何一つ言っていないのに。
「ありがと。碧にそう言ってもらえると嬉しい。じゃあ、一回立って読み合わせしてみよっか」
言われるがまま碧は立ち上がって、配られたばかりの新ネタを、本番を意識して、ちゃんと抑揚をつけて読みだす。頭に染み込ませるために、視線を新ネタに集中させて、なるべく筧の表情は見ない。
今までと似た構成のネタ。それでも碧は読み合わせているうちに、如何ともしがたい違和感を抱いていた。
きっとそれは途中で店員がドリンクを運んできて、一回読み合わせが中断されたからではない。
変わらない声量の筧の声が、どこか空疎に感じてしまったからだ。心はこもっているのだが、プラスには働いていない。それにネタ自体にも、碧は心地の悪さを感じてしまう。
今までのネタよりも明らかに展開が早い。ボケを詰め込めるだけ詰め込んでいるのに、その一個一個のボケが有機的に結びついていない。
筧は、本当にこれで満足しているのだろうか。
碧は読み合わせが終わるまで、ついぞネタが書かれた紙から顔を上げられなかった。必死に取り繕っているであろう筧の表情を想像すると、痛々しい気持ちになる。
防音が完璧で周囲からは物音ひとつ聞こえないことも、碧の不安を駆り立てた。
(続く)
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