第12話 これから会えない?



「では、次はAブロックエントリーナンバー八番、スケアクロウさんお願いします」


 審査員代表だろう。男性の声がマイクを通して、碧たちに届く。


 碧たちは今一度、お互いの顔を見合った。目と目で会話をする。恐れも不安も筧と乗り越えようと、碧は視線に込めた。


 一つ頷き合ってから、碧は「どーも!」と、センターマイクへ向かっていく。後ろを歩く筧の存在は、何よりも心強かった。


「スケアクロウです! よろしくお願いします!」


 碧たちが挨拶をしても、客席から拍手は起こらなかった。出場者の友達や家族など関係者が大半だろう客席は、エメラルドシティによって少し暖められてはいたものの、そこまで甘くはないようだ。


 でも、これからのネタ次第では、この人たちを味方にすることもできる。


 碧たちはマイクに向けて声を張った。気圧されていれば、準決勝進出はどのみち叶わない。


「テレビとかでドラマを見ていると、憧れるシチュエーションってあるじゃないですか」


「ああ、ありますね」


「特に私あれが好きなんですよ。サスペンスドラマで、刑事や探偵が『犯人はあなたです!』って言うの」


「確かに定番ではありますね」


 導入もそこそこに碧たちは、さっそく漫才内コントに入った。客席の前では三人の審査員がペンも持たずに、じっと碧たちの漫才を眺めている。


「これらの証拠から導き出される答えは一つ。犯人はあなたです!」


「はい、そうですけど」


「いや、認めるの早いな。そこは一回否定するとこでしょ」


 最初のボケ。漫才の出来を左右する一番の勘所。碧としてはうまくとぼけられたつもりだ。筧のツッコミも稽古通りにできている。


 だけれど、客席は湖の水面のように凪いでいて、笑い一つ起こらなかった。


 今日は筧の友達も来てくれていないから、二人を知っている客は一人もいない。見ず知らずの人間を笑わせることの難しさを、碧は最初のボケで思い知る。


 喉がキュッとする。それでも、まだ漫才は始まったばかりだと、碧は自分を奮い立たせた。


「犯人はあなたです!」


 後ろを向いて辺りをキョロキョロする碧に、「いや、あなたですよ、あなた。ちゃんとやってください」と筧がツッコむ。


 微動だにしない客席。エメラルドシティが暖めてくれたホールの空気が、急速に冷やされていく。


 服の中で碧は汗をかいていた。冷や汗だった。


「犯人はあなたです!」


「そんな。私がそんなことするわけないじゃないですか」


「いいえ。あなた、事件発生時刻は、男の人と一緒にいたって言ってましたよね。でも、その方に聞いたらあなたとは昨日会っていないと言っていました。どうしてすぐにばれるような嘘をついたんですか? 本当は何をしていたんですか?」


「は、はい。本当は一人で、せんだみつおゲームをやっていました」


「いや、一人じゃできないでしょ! 鏡に向かってやったんですか!」


「はい、合わせ鏡を使ってこう」


「もはやホラーじゃないですか! よくおかしくなりませんでしたね!」


 冷え切った空気に潰されないよう、碧たちは声を張り上げる。もはや二人は意地だけで立っていたが、何としても笑わせたいという思いが伝わったのか、客席には小さな笑いが起きた。


 笑ったのはたったの二、三人ほどだったが、碧にとっては初めての成功体験だ。必死だったから気持ちよさは感じなかったけれど、心から一つ枷が外れたような気はした。ほんの少し、自信も芽生えてくる。


 それも次のボケがスベって、あえなく潰えたが。


「いや、そんなわけないでしょ。もういいよ」


 漫才が終わっても、やはり拍手は起こらなかった。頭を上げてみても、無表情の人々がいるだけで、碧の心は痛む。一回だけウケたのは、幻だったのではないか。


 三人の審査員はさっさとペンを動かしていたけれど、何を書いているのかは碧からは見えない。


 審査員席の中央に座った男性が、「スケアクロウさん、ありがとうございました。お戻りください」と、事務的な口調で言う。


 碧たちは逃げるようにして、舞台袖に戻っていった。舞台袖は狭く、一緒にいられる人間は限られる。だから、碧たちは立ち止まらずに、そのまま楽屋へと戻らなければならなかった。


 長い廊下を歩いて、楽屋に入る。相変わらず、次のブロックの出場者で座るところもない。


 でも、人目があるという一点だけで碧の形は保たれた。


 概ねスベって、これ以上は東南会館にいたくない。


 碧たちはすぐに荷物を手に取って、東南会館を後にした。


 一歩外に出た瞬間、碧は大きなため息をつく。その場に留まる碧に、筧が何も言わずに肩に手を置く。


 じわりじわりと昇ってくる熱気の中、碧はしばらく動けなかった。





 大学生会の予選での出番が終わっても、碧たちはアルバイトの合間に会っては、ネタ合わせを続けていた。


 他の日の様子は知らないが、おそらく自分たちが準決勝に進出することは、天地がひっくり返らない限りありえない。それは二人とも分かっていた。


 だけれど、このまま終わりなんて悔しすぎるし、ネタ数は多いに越したことはない。


 藍佐大学では、一一月の二日から五日に藍佐祭という学園祭が予定されている。ALOも二号館の教室を、借りてお笑いライブを行う予定だ。


 四日間、午前と午後の計八ステージを、同じネタで回すわけにはいかない。今すぐにではなくても、ネタを増やしていく必要が二人にはあった。


 八月一八日は、二人ともアルバイトが入っていて、しかも時間が日勤と夕勤でずれていたから、ネタ合わせはできなかった。


 ファミリーレストランで注文を取りながらも、碧の心は落ち着かない。


 今日は大学生会の予選最終日だ。全てのブロックが終了した後には、結果発表がある。何百組というエントリーの中から準決勝に進める五〇組が決まるのだ。


 望みは薄いと分かっていても、碧は期待せずにはいられない。客席と厨房を往復する間も、今に発表されるのではないかと、どこか上の空だった。


 夜の九時を過ぎて、碧はこの日最後の休憩時間を与えられる。休憩室に着くと、座るよりも先に、碧はスマートフォンを取り出した。


 ツイッターを開き、大学生会のアカウントを検索する。すると、一〇分前に新しいツイートが投稿されたばかりだった。


〝大学生会、準決勝進出者が決定しました〟


 ツイートに貼られたリンクを、碧はタップする。


 準決勝進出者と書かれた五〇組の中に、スケアクロウは入っていなかった。瀬川や戸田、西巻の名前もない。


 自分たちの現在地を突きつけられて、碧がまず感じたのは、「悔しい」という感情だった。思わず臍を嚙む。


 自分たちの最大限をぶつけた結果だから仕方ないとは、とても思えなかった。準決勝に進出した平川や新倉に対しても、ちゃんと悔しがれている。


 同じ舞台に立った以上、始めたばかりだという言い訳は通用しないのだ。


 結果発表のページを閉じ、別のSNSでも見て気を紛らわそうとした瞬間に、画面の上には通知が表示される。筧からラインが到着していた。


〝今日これから会えない?〟





 碧がアルバイトを終えたのは、夜の一〇時を過ぎてからだった。


 ファミリーレストランの最寄り駅で二人は落ち合い、駅前のファーストフードチェーンに入る。二人とも夕食は済ませていたので、コーヒーだけを頼み、二階席へと向かう。


 夜も遅いというのに、二階席ではまだ盛んに話し声が飛び交っていた。


「大学生会のことなんだけどさ」


 二人が窓際の席に並んで座ると、筧が話を切り出した。少しずつ明かりが消えていく街並みを眺めながら、碧は次の言葉を待つ。


「仕方なかったじゃすませたくはないよね」


 筧の言葉は短かったけれど、碧が心情を推し量るには、それだけで十分だった。頷いて共感を示す。


 口をつけていないカップから、コーヒーのかぐわしい匂いが香りだつ。


「準決勝に進出したのは、ほとんどが三回生以上の人だった。でも、舞台に立った以上、活動期間は関係ない。面白ければ評価されるし、次のステージに進める。ただそれだけのことだよ」


 学生芸人たちを審査するのは、無関係の大人たちだ。そこに面白さ以外の評価基準は存在しない。


 シンプルな事実を、悔しさを押し殺すように、筧は淡々と述べる。碧も感情的になりそうな自分を抑える。


 もはやコーヒーに口はつけられない。


 周囲の浮ついた雰囲気とは全く違うひりついた空気が、二人の間には流れていた。


「筧。私もっとウケたい。大学生会でも一度だけ笑いは起きたけど、たった一回じゃ満足できない。もっと見てくれる人を、腹抱えるくらい笑わせたい。たくさんの笑い声の中で、漫才がしたい」


「そうだね。私も今のままじゃダメだと思う。もっと面白いネタを書いて、技術的にも上達した漫才を見せないと。このままスベり続けるなんて、耐えられない。次こそは絶対にウケてやる」


 二人はお互いの顔を見ずに、ただ窓の外を眺めながら、思いを吐き出した。


 それでも、碧は筧の表情が明確に分かる。決意に満ちた瞳は、自分が今持っているものだった。


「次の出番は一一月の学祭だよね。八ステージ全部で笑いをとれるように、また明日から稽古しなくっちゃ」


「ああ、碧。そのことなんだけどさ」


 そこで筧はいったん言葉を区切った。


 次のネタの方向性を伝えられる。そう想像しながら、碧は耳を傾ける。


「私たちでさ、N-1出てみない?」



(続く)

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