第11話 エメラルドシティ
「えっ、もしかして上野さん?」
同じように驚いた顔をしている平川に、碧はおずおずと頷く。入ってきたのは平川だけでなく、もう一人、碧たちよりも少し背の高い女性も一緒だ。
冷房が逃げるからと、その女性がドアを閉めると、碧たちは再び、ひりついた空気が流れる控室に閉じこめられる。
「何、平川。この人知り合い?」
「
平川の先輩なのだろう。新倉は緊張なんて全くしていないような笑顔で、「そっか、あなたが上野さんか」と語りかける。清々しささえ感じて、碧はわずかに縮こまってしまう。
筧は何かに気づいたように、小さく口を開けていた。
「えっ、ここにいるってことは、もしかして上野さんも大学生会に出るんですか? ていうかお笑いやってたんですか?」
「ええ、まあ一応は。『も』ってことは平川さんも出るんですか?」
「はい。こちらの新倉さんと一緒に、漫才で出ようと思ってます」
「へ、へえ。凄いですね」
「何言ってるんですか。上野さんも出るんでしょう。一人ですか? それともそちらの方と一緒ですか?」
「あの、私たちも漫才で出るんです。こっちの筧と一緒に、スケアクロウってコンビ名で」
碧が軽く目を向けて、筧も頷く。
二人を見た平川は、「えっ、本当ですか!?」と、なおも驚いた素振りを見せていた。
「スケアクロウって言ったら、私たちの次じゃないですか! 出番はAブロックの八番目で合ってますよね?」
「は、はい。えっ、ってことは七番目のエメラルドシティって、平川さんたちだったんですか?」
「そうです、そうです。何百組も参加してるのに、こんな偶然ってあるんですね!」
よほど驚いたのか、平川は興奮気味に言っていて、碧は少したじろいでしまう。目の輝きが「お互いがんばりましょう!」と、言っているようだ。
「そろそろ荷物置こ」と新倉に言われて、控室の奥へと向かっていく平川。
碧たちはその様子を見てから、控室から出た。廊下では出番を控えた数組が、壁に向かって最後のネタ合わせをしている。会場となるホールには鍵がかけられていて、入ることはできない。
碧たちは少し進んで、比較的人が少ない場所に辿り着く。不十分な冷房に立っているだけで、じわじわと汗が湧いてきそうだった。
「じゃあ、筧。ネタ合わせ始めよっか」
壁に向かって立ちながら、碧は顔だけを筧の方へと向ける。
だけれど、筧はすぐには首を縦には振らなかった。
「碧さ、私思い出したよ」
「思い出したって何が?」
「あの人。平川澄礼。どっかで聞いたことがあるって思ってたんだ」
「平川さんがどうかしたの?」
「あの人、去年の漫才インターハイのチャンピオンだよ。高校生漫才コンビナンバーワンを決める大会の」
初めて聞いた大会名。でも、筧の言わんとしていることは碧にも分かった。分かったからこそ、その事実は驚きを持って感じられた。
「えっ、ってことは、去年の高校生漫才日本一ってこと?」
「そう。大学でもお笑い続けてたんだ。こりゃエメラルドシティ、かなりやるかもね」
知らされた平川の正体を、碧は前向きに考えられなかった。
大学生会の準決勝進出者は五〇組、決勝進出は二〇組と決まっている。平川たちエメラルドシティは間違いなくその有力候補だろう。高望みはしていないつもりだったが、決勝進出の枠が一つ埋まるかもしれないと考えると、碧は得体の知れないバツの悪さを感じた。
爆笑を取っても、スベっても、エメラルドシティの直後というのは、それだけで少しやりにくそうだ。
「まあ、他の出場者に構ってる場合じゃないか。私たちは、私たちのネタをやるだけだもんね」
「さ、碧。ネタ合わせ始めよ」。改めて筧が言ってきても、碧は頷くのに少しためらってしまう。
去年の優勝者でここにいるということは、自分と同じ大学一年生ということだ。碧のなけなしの自信が揺らいでいく。
でも、今できることは自分たちのネタをやりきることしかない。
壁に向かってネタ合わせをする二人。でも、喋っていても平川のことは、碧の頭からは離れなかった。
「いらっしゃいませー、こちらのお召し物なんていかがでしょう?」
「いや、早い早い。こういうのは客が悩んでるところに、話しかけるもんなんだから」
体育館にも似たホールには、どこか神妙な空気が流れていた。大会特有の緊張感を、碧は舞台袖で初めて味わう。笑おうというよりも、審査しよう、見定めようという色合いがホールには強く、それは観客からは見えないところに立っている碧にも、ひしひしと伝わってきた。
今舞台に出ているのは、平川と新倉のコンビ「エメラルドシティ」だ。
碧が舞台袖で聞く限りでは、今まで誰もウケてはおらず、館内は夏とは思えないほど冷え切っている。
なのに平川も新倉も、やりづらそうにはしていない。びっくりするほどの自然体は、踏んできた場数の違いを碧に思わせた。
「お客様、何かお探しですか?」
「はい。あの、新しいトップスを買いたいんですけど」
「そうですか。でも、お客様なら何を着ても似合うと思いますけどね。悪い意味で」
「いや、悪い意味でって。なかなか続かない言葉だけど」
平川たちの漫才は進んでいく。歓迎ムードとは言えないなかでも、二人は実にはきはきと漫才をしていた。
実際、平川たちのネタは碧にとっては間違いなく面白く感じられるもので、緊張しているのに時々笑ってしまう。客席にも少しずつ笑いが生まれてきた。どちらが書いているにしても、相当練られたネタだと碧は思う。
「お客様、すごいお似合いですー! まるで手負いの横綱みたいですー!」
「よく分かんないけど、絶対褒めてないでしょ。もっとシンプルな言葉ちょうだい」
ネタは加速度的に盛り上がっていく。客席の笑いも、どんどんと大きくなっていく。ホールはすっかり夏にふさわしい熱さに包まれる。
冷え切っていたところから、たった数分でここまで盛り上げるとは。やはり漫才インターハイ優勝の実績は伊達じゃない。これは紛れもなく、決勝進出の有力候補だ。
口一つで会場を沸かす。
準決勝進出へのボーダーラインを見せつけられて、碧は自分たちがそのレベルに達していないことを突きつけられた気がした。笑いながら、舞台に上がるのが怖くなってもいた。
「でも、これであなたもオシャレの第一歩が踏み出せませたね」
「そんなわけないでしょ。もういいよ」
『どうもありがとうございました』。舞台上の二人が声を合わせて頭を下げると、客席からは、ぽつりぽつりと拍手が送られた。最初は小さくても、やがて周りを巻き込んで大きな拍手に変わる。デビューライブで碧たちが受けたお情けの拍手ではなく、ちゃんと心からの拍手だ。
もはや結果は、誰もが分かっているだろう。
碧たちと反対方向の舞台袖に去っていく間際、平川は満足そうな表情を浮かべていた。心から手ごたえを感じているような表情が、碧の心に追い打ちをかける。
今の自分たちの最大値を発揮できたとしても、平川たちに及ぶかどうかは分からない。
だけれど、挑まずに逃げたら何も得られない。
碧は一つ息を吸って、照明に照らされた舞台を見つめた。胸に迫るドキドキは、デビューライブのときに勝るとも劣らなかった。
「では、次はAブロックエントリーナンバー八番、スケアクロウさんお願いします」
(続く)
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