第10話 ご飯食べてかない?
「ねぇ、碧。よかったらウチでご飯食べてかない?」
今まで何回か筧の家に行ったことはあっても、そんなことを言われたのは初めてだったから、碧はひどく驚いてしまう。どういう意図だろうか。
動揺を悟られたくなくて、碧は遠慮深い口調になった。
「でも、もうこんな時間でしょ。私の分のご飯なんて作ってないんじゃない?」
「それなら大丈夫。ウチけっこう晩ご飯遅い家庭だから。今から頼めば、碧の分も作ってくれると思うよ」
「いや、でも家族水入らずのところに、私が水を差しちゃうのはどうかな……」
「碧、埋め合わせはするって言ったでしょ。大丈夫。お父さんもお母さんも迷惑には思わないはずだから」
筧の目はいたって真剣だ。碧の腹の虫もぐうぐうと鳴っている。
だけれど、碧は今まで一度だって、よその食卓に混ざったことはなかった。一緒に食卓を囲むという行為は、かなり親密な間柄でなくては成立しえない。
コンビを組んでいるとはいえ、自分たちがそこまでの関係になれているとは、碧には思えなかった。
でも、はっきりと断るのも、筧に失礼な気がする。
どう言おうか、碧は必死に頭を回す。すると、絞り出すように代案が浮かんだ。
「ねぇ、筧。気持ちは本当にありがたいんだけど、ご飯で埋め合わせをするっていうなら、私たち二人だけの方がよくない?」
言った側から碧は、自分の頬が赤く染まっていくのを感じる。少し踏みこみすぎたかもしれない。
だけれど、筧は間の抜けたような声で「あっ、そっか」と言っていたから、碧の速まった心拍数は伝わってはいないようだった。
「確かにそっちの方がいいね。じゃあさ、金曜。ALOの活動が終わった後はどう? どこ行くかは碧の好きにしていいよ」
「うん。じゃあ、それで。なるべく安い店探しとく」
「そんなケチんなくてもいいのに」
二人は再び微笑みあった。筧と二人での食事は、今まで意外となかったから、碧は今から楽しみになってくる。二人の好みが合う店にしなければというプレッシャーも感じなかった。
玄関まで送ってもらって、碧は筧家を後にする。梅雨を過ぎて、夜空には一つの雲もなかった。
「ねぇ、筧。今日は本当に奢ってくれるの?」
「もちろん。私がドタキャンしたのがいけないんだし。それにここ、そんな高い店じゃないしね。実家暮らしナメないでよ」
得意げに口にする筧を、碧は感謝の言葉を言いながら、羨望の眼差しで眺めていた。実家からは月五万円の仕送りが送られてきているとはいえ、家賃や生活費も考慮すると、碧の生活に大きな余裕はなかった。夕食もスーパーの半額になった惣菜で済ませることが多い。
だから、碧が焼肉店に来るのは上京してから初めてだった。全国展開している大手チェーン店とはいえ、一人では金銭的にも精神的にもハードルが高い。
でも、焼肉は好きだったから思い切って持ちかけてみると、筧は快くOKしてくれた。家族以外とでは初めて行く焼肉店は、暗めの照明が大人な雰囲気を醸し出していて、碧には少し背伸びをしているように感じられた。
「でさ、碧どうだった?」
「どうだったって何が?」
「今日送った新ネタ。面白いと思った?」
注文したチョレギサラダにご飯、定番の五種盛り合わせが来るよりも先に、筧は碧に問いかけていた。筧が何を言ってほしいのかは分かっていたから、碧はひとまず微笑んでみせる。
新ネタはスポーツジムが題材で、動作で笑いを取る箇所が多かった。
「うん、面白かったよ。今までとは違った感じのネタで、こういうのも書けるの凄いなって思った」
「ありがと。今の二本とは、ちょっとテイストを変えたいなって思ってたからね。気にいってもらえて嬉しいよ」
「まあ、動きが多い分、稽古はちょっと大変そうだけどね」
碧がツッコんで二人が和やかに笑い合っていると、まずチョレギサラダが運ばれてきた。
年下である手前、碧は自分が取り分けようとも思ったが、筧に「いいからいいから。今日は全部私がやったげる」と言われて、トングに伸ばした手をひっこめる。
筧に何もかもやらせて、まるで自分が今日の主役になったみたいだ。
「じゃあ、まずタン塩からでいい?」
定番の五種盛り合わせが届いて、当然のように生肉用の菜箸を持つ筧に、碧も頷いた。
すっかり温まった網の上に、厚めに切られたタン塩が乗って、香ばしい音を立てる。肉汁が焦げる匂いに、碧は思わず前かがみになって、網の中を覗いてしまう。
でも、これでは自分が食いしん坊みたいだ。そう気づいて顔を引っこめると、筧は少しニヤニヤした表情で碧を見ていた。
碧もぱっと頬が赤くなってしまう。でも、悪い心地はしなかった。
芯までしっかり火を通してから、筧は碧の取り皿にタン塩を乗せた。レモン汁をかけていただく。上京する前日ぶりに食べた焼肉は、記憶していたよりもずっとジューシーで、自ずと碧の口角を上げた。
「美味しいね」と言う筧に、「うん、美味しい」と返す。
何の意味もない、でもお互い自然と笑顔になるような会話は、まさに今の碧が欲していたものだった。
「ねぇ、碧。昨日のネタラン見た?」
焼肉をつまみにして二人の会話は続いていく。いくつかの話題を経た後に、筧が口にした「ネタラン」とは、毎週木曜日の深夜〇時から放送されているお笑い番組「ネタのメリーゴーランド」の略称だ。主にブレイクを期待されている若手や中堅芸人が出演している。
「いや、昨日はバイトで疲れてそのまま寝ちゃった。でも録画はしてあるから、今日帰ったら見るつもり。昨日の回面白かった?」
「うん、めっちゃ面白かったよ。新動物とかジョニー・ストロボとかが出てて、笑いっぱなしだった。特にガゼルシティが私は一番面白かったかな。映画館のネタ、めっちゃツボだった」
「ああ、隣に座ってきた人とずっと話してるやつ? それなら先月の単独でもやってたよ」
「えっ、マジで!?」と筧は、軽く身を乗り出して驚いている。網の上ではハラミが、景気のいい音を立てて焼けている。
「うん、マジ。たぶん先月の単独で卸して、評判がよかったからテレビでもやったんじゃないかな。実際、動きはほとんどないのに、めっちゃウケてたし」
「マジかー。私も単独行ければよかったなぁ」
「急な体調不良だったんだから、しょうがないんじゃない? 現にこうして一緒に焼肉食べられてるわけだし。怪我の功名だよ」
「そろそろいいんじゃない?」と碧が言うと、筧はハラミを裏返した。裏面にも焼き目がついていることを確認して、二枚ずつ取り皿に分ける。
焼肉のタレをつけて碧が口に運ぶと、濃厚な肉の味わいが口の中に広がった。筧も満足げに舌鼓を打っている。
新歓の時から思っていたが、筧は本当に物を美味しそうに食べる。一緒に食事をするには、申し分のない相手だ。
「でさ、単独が終わった後に隣に座ってた人と、またラーメン屋で会ったんだよね?」
「うん。なんか勢いでラインも交換しちゃった。今でもたまにやり取りしてるけど、その人凄いんだよ。芸歴一年目の芸人も知ってるぐらい、知識が豊富で。ひょっとしたら筧以上かも」
「えっ、その人、名前なんて言うの?」
「何、筧。もしかして対抗意識燃やしてる?」
「いや、そうじゃないけど、そんなにお笑い詳しいなら、一度会ってみたいなって。話弾むかもしれないし」
「まあ、そうだね。確か平川澄礼さんって言ったかな。私たちと同じ学生みたい」
「平川澄礼……」。意味深そうに筧がその名前を繰り返す。
「どうしたの? 知り合い?」
「いや、知り合いじゃないんだけど、どっかで聞いたことあるなって。どこだったかな……」
筧は数秒考えこむ様子を見せたが、最終的には「まあいっか」と、二枚目のハラミに箸を伸ばしていた。
碧も筧の態度は気になったが、すぐに意識は網の上に載せられたカルビに向かっていた。
八月三日は、太陽が強く照りつける猛暑日となった。
地下鉄を降りた瞬間、碧はむっとするような熱気を全身に浴びる。涼しかった車内とのギャップで、早くも汗をかきそうになりながら階段を上がると、改札の向こうで筧が待っていた。
まだ開演までは一時間ほどあるのに気が早くて、碧は少しおかしい。
でも、その感情を表情に出すことはできなかった。
今日は大学生会の予選初日にして、碧たちの出番の日だ。二時間後には、自分たちは舞台に立っている。
そう思うと碧は緊張せずにはいられない。筧の顔も引き締まっていて、特別な思いを抱いていると碧は察した。
短い会話を交わして、碧たちは地上に出る。
会場となる杉並区東南会館は、一番近い出口からでも五分は歩く。飲食店が立ち並ぶエリアを過ぎ脇道に入ると、人通りはぐっと少なくなった。
でも、筧についていき辿り着いた建物は、入り口に「今日の催し物:大学生会予選」と書かれていて、碧はひとまず息をつく。
だけれど、それは逃げられない戦いが始まる合図でもあった。
控室は出場する学生芸人たちで、既に座る場所もない状態だった。大学生会の出場者は全国から来るだけに多く、今日だけでも五六組の学生芸人が一斉に審査される。
審査は四つのブロックに分かれ、出場者はその都度入れ替わるとはいえ、多くの学生芸人が来ているという事実は、彼ら彼女らの気合いのほどを碧に思わせた。誰も彼もが少し落ち着かなさそうにしている。
そんな控室の空気が碧にはいづらくて、外に出ようと筧に提案した。筧もそれを受け入れ、二人は貴重品だけ持って、いったん控室から出ようとする。
だけれど、二人が入り口に近づいたとき、ふと外からドアが開けられた。
そこにいた人物に、碧は目を疑ってしまう。驚きのあまり、一瞬声が出なかった。
(続く)
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