第9話 ラーメン屋で
少し駅前をさまよった碧は、豚骨の匂いに惹かれて、ラーメン店に入った。ラーメンを注文してから、スマートフォンを取り出し、筧に感想を送る。
筧はまだバイトの真っ最中なのだろう。すぐに既読はつかなかった。
スマートフォンから顔を上げる。店内は、壁になにやらこだわりのようなものが書かれ、若い客がテーブル席で話しこんでいた。
ぼうっと厨房を眺める碧。麺が茹で上がり、スープが注がれているのを見ていると、ドアが開いて少し湿った風が入ってきた。
「いらっしゃいませー! お好きな席どうぞー!」
店員の声に流されるように、碧は入り口を見た。そこに立っていたのは、単独ライブで隣に座っていた女性だった。
女性も碧に気づいたのか、隣に座ってくる。話してもいないのに、そんな簡単に距離を詰められる人間なんだ。
女性は碧と同じラーメンを頼み、水を一口飲むと、くるりと碧の方を向いてきた。
「間違ってたらすまないんですけど、さっきのガゼルシティの単独で、隣に座ってましたよね」
前置きはしているものの、女性は確信を持って話しかけてきていた。嘘をついても仕方がないと思い、碧は素直に頷く。
すると、女性は表情をぱっと華やがせた。
「やっぱり! もしかして、ガゼルシティ好きなんですか?」
「いえ、私が好きというよりは、誘ってくれた友達が好きで。今日も来るはずだったんですけど、急に予定が入って来れなくなっちゃったんです」
「ああ、右隣が空いてたのはそれででしたか」
腑に落ちたように言う女性に顔を向けながらも、碧はちらりと厨房も垣間見る。
でも、たかだか三分ではラーメンは運ばれてくるわけもなかった。
「で、どうでしたか? ガゼルシティ、好きになりましたか?」
他にすることがないのだろうか。女性は碧との会話を続けたがっていた。
話しかけられている手前、碧も無視するわけにはいかない。
「ま、まあ。今日やった五本、どれも面白くて腹の底から笑っちゃいました」
「ですよね! 今日の五本、全部新ネタだったんですけど、どれもこれからの彼らの代表作になるんじゃないかってぐらい面白くて! あの、よかったらお名前教えてもらっていいですか?」
「う、上野です」
「上野さんですか! 上野さんは今日のネタの中で、どれが一番面白いと思いましたか?」
「私は、病院のネタが一番面白かったです」
「余命宣告されるやつですね! 今までにはない、ちょっとブラックな要素も入ってて! 私もそれが一番面白かったと思います!」
そこから女性は、今日の感想やガゼルシティの魅力を勢いよく語り始めた。二年前から単独ライブには足を運んでいるようで、今までのネタの系譜がとか、今年こそはトップオブコントの決勝に進めそうだとか、ほとんど一人で力説していた。
おかげで詳しくない碧は、ただ相槌を打つだけのマシーンと化してしまう。これだけ熱心なファンがいるガゼルシティは幸せだなとも思った。
「あの、上野さんって普段はどんなお仕事されてるんですか?」
注文には時間差があったのに、ラーメンは二人同時に提供された。少し不満を覚えつつも、碧はペールオレンジのスープに箸をつける。
ラーメンを食べている間も、女性は話しかけてきていた。どうやら話していなければ気が済まない性分らしい。
自分が社会人に思われたことに戸惑いを覚えつつも、碧は麵を飲みこんでから答える。
「あの、私まだ学生です」
「そうなんですか。学校とかここから近いんですか?」
「えっと、近いのか遠いのか分からない、ちょっと微妙な距離にあります」
「じゃあ都内ですね」
碧は頷いた。東京にキャンパスを構える大学は、優に三桁を数える。そう簡単には特定されないだろう。
「あの、あなたも学生さんなんですか?」
「えっ、ああ平川です。
「学校、この辺なんですか?」
「隣の隣の区だから、わりと近い感じだと思います」
「へぇ、そうなんですか」
二人はラーメンを食べながら、会話をし続けた。
主に平川が喋る形だったが、碧もあまりエネルギーを使わずに話せた。年も同じくらいだろうし、相性は悪くないのかもしれない。
話題は自然とお笑いの話になった。平川はほとんどのバラエティ番組やネタ番組、芸人がパーソナリティのラジオを視聴していて、碧が聞いたことがない芸人の名前がポンポンと出てくる。嬉しそうに語る姿に、ここにはいない筧の話し方を碧に思い出した。
喋りながらだったから、ラーメンを食べ進めるのには、当然時間がかかる。濃い味つけは、碧の胃に想像以上にもたれていた。
「上野さん、よかったらライン交換しませんか?」
ぐいぐい来る平川の積極性を、碧は素直に受け入れた。
ラーメンを食べ終わったタイミングで、ラインを交換する。
平川のアイコンはデフォルメされた芸人のイラストで、碧が抱くイメージからは、ほとんど外れていなかった。
「じゃあ、私こっちなんで。上野さん、またラインとかでお笑いの話しましょうね」
店の外に出て碧が頷くと、平川は駅とは反対の方向へと帰っていった。
繁華街の奥に向かう姿を、碧は黙って眺める。これだけ好きなものがあれば、人生楽しいだろうな。
平川が角を曲がったところで、碧も下北沢駅に向かって歩き出す。
芸人の真似事をしていることは、恥ずかしいから当分の間は言わなくてもいいかと思った。
「犯人はあなたです!」
「ええ、そうですよ」
「いや、認めるの早いな。そこはもっと引き延ばさないと」
二人の声が浮かんでは消えていく。窓から差しこむ西日に背を向け、二人は壁を相手にネタ合わせをしていた。
筧の書いてきた新ネタは前回の反省を生かしたのか、ボケの数が増えていて、碧には覚えるのに少し苦労がいる。
でも、次の出番まではあと一ヶ月もないのだから、四の五の言ってはいられない。冷房の風が、二人の肌をさらりと撫でる。
「碧さ、『ええ、そうですよ』ってところ、もっとポカンとした口調で言ってもらっていい? なんでそんな大げさにしてるの? みたいな感じでさ」
「うん、分かった」
前半部分を繰り返す二人。ネタができてから二週間、ずっとこんな調子だ。
もはや何が面白いのかも碧にはよく分からなくなってきていたが、この期間を乗り越えなければ、観客を笑らわせることはできない。
口調を修正して、碧は愚直に同じボケを発する。
今度こそウケたい。もうあんな悲惨な思いは嫌だ。
たとえそれが、碧が初めて立つ大学の外の舞台だとしても。
「じゃあ、今日はこの辺で終わりにしよっか」
筧がそう言ったのは、壁掛け時計が夜の七時半を指した頃だった。筧の部屋にやってきて早三時間。これ以上の長居はできないだろうと、碧は頷く。
既に一時間ほど前から、一階から小さくテレビの音が聞こえてきている。
筧の家族が練習し通し、ぶつぶつ言い通しの自分たちを黙認してくれていることが、碧にはありがたかった。
「どう? 勉強の方は。碧にとっては初めての期末試験だし、大変なんじゃない?」
ふと聞いてきた筧を、碧は不思議には思わなかった。
次の出番は期末試験が終わった直後だ。筧が不安がるのも無理からぬことだろう。
「まあ、今のところは何とかね。一応毎週講義には出れてるし、高校でもテストの点数だけは悪くなかったから、きっと何とかなると思うよ」
「ならよかった。大学生会に集中して単位落とした、なんてことになったらマズいもんね」
笑い事ではない事態を微笑みながら言う筧に、碧も小さく笑って返した。
大学生会は、冬のKACHIDOKIと並ぶ大学お笑い界の二大大会だ。KACHIDOKIが団体戦で行われるのに対し、大学生会は個人戦で行われる。
ALOからは三組がエントリーしていて、碧たちは予選を八月第一週の土曜日に控えていた。
「それよりも筧さ、ネタもう一本作るってエントリーした時に言ってたよね。あれ、大丈夫なの?」
「ああ、それなら今大詰めを迎えているとこだから。次のネタ合わせの時には渡せると思う」
「ならよかった」と安堵する碧に、筧も頷く。
大学生会は予選、準決勝、決勝の三つのステージから成り、もし決勝まで進めば、三本のネタが必要になる。海外旅行と探偵の二本しかネタがない碧たちには難しい状況だ。
だけれど、間に合いそうなことに碧は小さな希望を見る。これで決勝に進んでも大丈夫そうだ。
「じゃあ、また金曜。ALOの活動のときにね」
少しばかり会話を交わして、碧は筧の部屋から立ち去ろうとした。
テキストが入ったバッグを持って、ドアノブに手を伸ばす。瞬間、筧は碧を呼び止めた。
「ねぇ、碧。よかったらウチでご飯食べてかない?」
(続く)
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