第13話 N―1出てみない?
「私たちでさ、N-1出てみない?」
告げられた言葉が想像からかけ離れていたから、碧は思わず筧の方を向いてしまう。
筧の表情には一かけらの疑問もない。
だけれど、碧は「N-1」という言葉を、すぐには飲みこめなかった。
今までぼんやりと決勝だけをテレビで眺めていたN-1に、自分が出場する。そんなことALOに入ってもなお、碧は一度も意識したことがない。
「えっ、N-1ってあのN-1?」
「そうだよ。他にどのN-1があるの。N-1はアマチュアでも出場可能なのは、碧も知ってるよね?」
「いや、それは知ってるけど……。えっ、筧本当に出る気なの?」
「もちろん。N-1予選に出場する学生芸人って、けっこう多いんだよ。何も私たちだけじゃない」
筧に説得されてもなお、碧は踏ん切りがつかずにいた。
テレビの中の世界に自分が参加するなんて。
碧の迷いを見透かすように、筧は目に力を込める。腹を決めた人間の顔だと、碧は思った。
「ねぇ、碧。今の私たちに必要なのは、とにかく一つでも多くの経験を積むことだよ。これからKACHIDOKIまでに予定されてるライブって、学祭くらいでしょ。それだけじゃ全然足りないよ。もちろんやるからには突破するつもりでやるけど、たとえ結果がどうなろうと、真剣勝負の場で得た経験は、絶対に無駄にはならない」
筧の顔はいつになく真剣で、単なる思いつきではないのは、碧にも十分に伝わってきた。
ここで頷けばきっと、夏休み中の多くの時間が稽古に費やされる。
だけれど、ただテレビやサブスクリプションサービスを見て、時間を潰す過ごし方に、碧は違和感を抱くようになっていた。
今の自分たちにあるのは時間だけだ。それを有効に使わないでどうする。
止まない話し声に紛れないよう、碧はしっかりと筧を見つめ返した。
「そうだね。今の私たちには、失うものなんて何もないんだから、舞台に立って挑戦し続けないと。分かった。私N-1出るよ。筧と一緒に行けるとこまで行く」
筧はふっと目元を緩めた。碧が同意するのを、予期していたみたいに。
「うん。ありがと。実はもう一回戦は始まってるんだけど、今からエントリーしてもまだ全然間に合うから。エントリーは私がしとくね。エントリー料は、私と碧で半々でいい?」
頷く碧。いくらかは知らないが、折半すれば大した金額にはならないだろう。
「よし、じゃあ決まり。簡単な戦いにはならないと思うけど、まずは一回戦突破を目指してがんばろう」
「うん。絶対に大学生会とは同じ結果にならないように、明日からまた稽古、稽古、稽古だ」
頷きあう二人。筧の双眸の奥で燃え盛っている炎を、碧は感じる。次のネタ合わせも新鮮な気持ちで臨めそうだ。
二人はようやくコーヒーに口をつける。氷が溶け切っていないコーヒーの冷たさが、碧の目を鮮明に覚ました。
二人がエントリーを終えて、N-1事務局から知らされた一回戦の日時は、九月も半ばの金曜日だった。他の日程もあるなかで、運よく夏休み最後の週末が割り当てられたことに、碧はひとまず安堵の息をつく。
日程が決まってからは二人は、予定が合う限り、ひたすらにネタ合わせに励む日々を送った。筧の部屋で、カラオケボックスで、もしくは近隣の公園の東屋で。
話し合った結果、一回戦で披露するネタは、まだ一度も人前でやったことがないスポーツジムのネタに決まった。スベった苦い経験があるネタよりも、まっさらなネタの方が前向きにやれるのではないかという判断だ。
来る日も来る日も顔を合わせて、稽古に取り組む二人。
碧も筧も明確な目標ができて、ネタと生活のためのアルバイト以外は、何も目に入らない日々が続いていた。
「いや、どんなスポーツジムだよ。もういいよ」
壁に向かって頭を下げる二人。カーテンの向こうで高く昇っている太陽に、碧はいつの間にか汗をかいていた。
九月に入ってからけっこう経ったとはいえ、まだ夏は未練がましく、暑さをあまねくすべての人に届けている。
真夏のピークは去ったものの、気温はまだ緩やかな下り坂の最中にいるようだった。
「どうする? 碧。一時間くらい経ったし、一回休憩挟もっか?」
労わるような目で見てきた筧に、碧は素直に頷く。動きが多く、ボケである碧に運動的な負担がかかるネタだ。冷房は二五度に設定されていても、まだ暑い。
「ちょっと待ってね。今アイス持ってくるから」と筧がドアを閉めると、碧は改めて部屋を見回した。
本もDVDも数えるほどしかない。ベットのシーツはピシッと張られ、学習机の上には、大学の参考書がきちんと整頓されている。
非の打ち所がないほど整った部屋は、未だに碧に少しの緊張感をもたらす。置かれているすべてのものが気になったが、当然むやみやたらに触ってはいけない。
「お待たせー。碧、チョコとバニラどっちがいい?」
戻ってきた筧の手には、二つのカップアイスとスプーンが握られていた。
碧がなんとなくバニラを選ぶと、筧は清々しい笑みでアイスを渡してくれる。紙の容器を通じて、氷でも触っているかのような感触だ。
隣で意気揚々とチョコアイスを口に運んでいる筧を見ると、胸の奥が少しざわつく。鎮めるように碧もバニラアイスをいただく。砂糖と牛乳のまろやかな甘みがした。
「どう? スポーツジムのネタ。動き多いけど、大変じゃない?」
アイスを食べながら尋ねてきた筧に、碧は内心吹き出す。そんなの、本番前日に聞くことじゃない。
「全然。毎日の稽古で動きにも慣れてきたし、目瞑ってても同じことができるよ。明日、いい状態で臨めそう」
「なら、よかった。私もここ数日になってようやく、碧との呼吸が合ってきたなって感じてるから。結果はどうにせよ、やれるだけのことはやれそう」
「うん。ベストを尽くせば、絶対に一回戦は突破できるはずだから。自分たちを信じてやるしかないよ」
筧だけでなく、自分にも言い聞かせるように碧は口にした。最善を尽くせば、おのずと結果はついてくる。何の経験もない碧たちが縋れるのは、確証のない構図だけだった。
筧が唐突に、「ねぇねぇ、ところでさ、私もバニラ一口食べていい?」と聞いてくる。
虚を突かれて、碧は思わず間抜けな声を出してしまった。
「そんなにバニラが好きなら、筧がバニラにすればよかったじゃん」
「それはそうなんだけど、碧が食べてるところ見てたら、食べたくなっちゃった。ねっ、一口だけでいいから」
少しも悪びれることなく、子供みたいに口にする筧に、碧はいとも簡単にほだされた。
カップを少し近づけ、筧にバニラアイスを掬わせる。口にした筧は舌だけではなく、顔全体で味わう表情を見せていて、碧の緊張をほぐした。
「うん」とだけ言って、今度は筧が碧にチョコアイスを近づけてくる。
意図するところは碧にもすぐ分かったが、無言でいただくわけにもいかなかった。
「どうしたの?」
「いや、碧もチョコアイス食べてよ。私だけが食べさせてもらうのは、何か悪いじゃん」
意味の薄いやり取りでも、碧には必要だった。おかげで筧が言うならと、チョコアイスにスプーンを伸ばすことができる。
控えめに掬って口に運ぶと、見た目通り、チョコの甘ったるい味がした。好きな味に、筧に「美味しい?」と聞かれると、碧はためらわうことなく頷ける。
よかったと言わんばかりに目を細める筧が、碧には白熱電球みたいに眩しく感じられる。
明日が予選本番だとは、とても思えないくらいに。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます