第16話 宝石狼

 その姿を、ルリは決して忘れない。


「綺麗……」


 先程までの闘いを、鉄毛熊という脅威を、第三層という魔境にいることさえも忘れてしまうほどに、その姿はルリの心を奪った。


 それは、一頭の巨大な狼だった。


 鉄毛熊よりも更に一回り大きい巨躯に、まるで宝石のような美しい赤い毛が特徴の大きな狼だった。


 いや、果たしてそれは本当に宝石のような美しい毛だったのか?


 その美しき毛並みを見て、枝の上からルリは言葉を漏らす。


「宝石の……毛?」


 巨大な狼の体を覆う獣毛は、宝石のようなではなく本当に赤い宝石の獣毛だった。いや、よく見れば獣毛だけではない。その狼の目も爪も、全身が宝石で出来ていた。


 その美しき獣の乱入に、見とれていたのはルリだけだった。他の三名、鉄毛熊までもが、その姿を見て震えていた。


「宝石狼……」


 その獣の正体を、ミケは声と身体を震わせて呟く。


 宝石狼。それは西の森に住まう、知恵持つ獣。この世界において、戦人に並ぶ最強の一角に数えられる種族が、リュカ達の前に姿を現した。




 ヤバイ、これはヤバイ。リュカとミケは思考を全力で回転させる。


 宝石狼はその姿から生きた宝石とも呼ばれる狼だ。昔から多くの人間が一攫千金を夢見て宝石狼を狙い、屍を山と積み上げてきた。


 宝石狼は、その姿によって強さが変わる。その中でもリュカ達の前にいる赤い宝石狼は、純霊狼、金剛狼に次ぐ第三位である紅玉狼。宝石狼の中でも高位の存在だ。


 嘘か真か、その昔たった一頭の高位の宝石狼を狩るために一国の軍隊が総力を挙げて戦い、そして壊滅したという噂話がある。例えそれが嘘だったとしても、その話が真実である可能性を疑うことが出来ない程の力が彼らにはある。他の噂では、最上位である純霊狼の力は神話の時代より生きる、竜や神獣と呼ばれる者達と並ぶほどだとも。


 紅玉狼がリュカとミケを見る。


 その瞳が自身を見たと認識した瞬間……リュカはそれまでの思考が全て吹き飛んだ。


 ああ、駄目だ。コイツからは逃げられない。どうあっても無理だ。今のままでは、逃げることすら出来ない。


 相手は別段威圧しているわけではない。ただ、二人をじっと見ているだけだ。実際に二人も宝石狼から圧力を感じているわけではない。だが見られただけで死を覚悟してしまうほどに、その力の差は絶対的であり致命的すぎた。


 二人の背中に、嫌な汗が流れる。竜人は戦いが好きで、強い者と戦う事に愉悦を覚える。だがそれは、あくまで戦いになる相手だけだ。


 リュカは本能的に理解していた。自分とこの紅玉狼とでは、まるで戦いにならない。ただの一方的な虐殺か、蹂躙で終わってしまう。それだけの差が、自分達と紅玉狼の間には存在している。恐らく戦うのならば、大人の竜人を呼ばなければならない。より万全を期すならば、竜化が終わった竜人が必要だ。


 爆砕斧を構える手が震え、大地を踏みしめる足が震え、全身がガタガタと震える。


 リュカにとって死は恐ろしくないはずだった。痛みにも慣れたはずだった。しかしそれでも身体が震えるのは、生物的な本能によるものだ。


 震える少女達を暫し眺めた紅玉狼は、ふと興味を失った様に視線を逸らす。


 二人は、揃って息を吐いた。そしてこの時、紅玉狼に見られている間、自分達が息を止めていた事に気がついた。


 次に紅玉狼は鉄毛熊に視線を向ける。


 リュカもミケも、鉄毛熊から漂う異様な気配を確かに感じた。あの鉄毛熊が、自分達が手を焼いた猛獣が怯えている。


 鉄毛熊は確かに自分達より強かった。だが、そんなものが些細な誤差になってしまえる程度には紅玉狼は強い。


 大熊が一歩下がると、追うように大狼が一歩前に出る。その光景を見て、今しかないとリュカは叫んだ。


「ルリ! 逃げるぞ!」


 ハッとした様子でルリはリュカを見て、枝から飛び降りる。リュカの大声を聞いても、紅玉狼は全く意に介さず鉄毛熊を見据えていた。


「ミケ、動けるか?」

「問題ないよ」


 自分の方はうまく動けるだろうかと思い、リュカは気付く。いつの間にか身体の震えが止まっている。これならば、問題なく動かせる。


「ルリ、身体強化をしな。全力で逃げるよ」

「は、はい!」


 ミケはルリが頷くのを見て、自身も身体強化を施し一気に駆ける。


 紅玉狼に背を向けて、三人の少女達は一目散に逃げ出した。





 一歩、また一歩と引き下がっていた鉄毛熊は、同じように一歩、また一歩と距離を詰めてくる紅玉狼を見て、いよいよ自分の命が終わりかけていることを理解した。ただ戦っても、ただ逃げても、命乞いをしたとしてもその先に待つのは死だ。


 だが彼は知恵持つ獣である。当然、彼我の力の差など理解しているし、その上で頭の中ではどのようにすれば逃げられるかの算段を組み立てている。


 ふと、自身の足元に違和感が生じた。他の獣達が掘り返したのだろうか、土が柔らかくなっている。


 この時、彼の中で生き延びる算段が整った。それを実行に移すために、彼は少しずつ後退していく。


 同じ距離を保ちながら進んでくる紅玉狼が先程の柔らかくなった土を踏んだ瞬間、その意識が僅かに逸れた。


 この瞬間を、鉄毛熊は見逃さない。


 紅玉狼の意識が自分から逸れたその瞬間、彼は反転して紅玉狼に背を向ける。と同時に、虚空から無数の光弾を放つ。


 鉄毛熊は身体強化を施し全力で駆け出す。放たれた光弾は紅玉狼の足元に直撃し、地面の中で大きな爆発を引き起こし、土砂を巻き上げた。それに期待するのは、即ち目眩ましだ。


 ほんの二呼吸する時間もあれば、充分に逃げ切れるだけの距離が稼げる。


 だがこのとき彼は気付かなかった。光弾が爆発し土砂を巻き上げたその直後、紅玉狼の姿がその場から消えていたことに。


 紅玉狼の爪が、逃げる鉄毛熊の身体を引き裂いた。




 三人は全力で森の中を駆ける。


「ミケ! 追ってきてるか!?」

「そんなこと言わなくても分かるだろ!!」


 珍しくミケが怒鳴り返す。それもそのはずだ。先程から、リュカの背後から濃い死の気配がずっとこちらを追ってきているのだ。紅玉狼が自分達を追ってきている……少なくとも、自分達の方に移動しているのは明らかだった。


 駆けだしてから死の気配を感じる時間の差を考えれば、鉄毛熊はそれなりに持ったといえるだろう。


 途中、何度も瘴獣達が行く手を阻んできたが、リュカ達は足を止めることなく突破した。殆ど戦うことなく抜けてきたので、もしかしたら紅玉狼を足止めして時間稼ぎをしてくれるかもしれない。瞬きするほどの僅かな時間しか稼げないだろうが。


 リュカはチラリと最後尾を走っているルリを見る。


 ルリは、辛そうな表情で走っていた。息が完全に切れている。身体強化を併用しての全力疾走は、想像以上に身体に負担をかけるのだ。カザリナで鍛えたルリだが、全力疾走ともなればもう限界に近いはずだ。


 リュカは考える。どうすれば三人で逃げ切れるのか。


 持ち込んできた道具の中には、火を付ければ強烈な白煙を撒き散らして強敵相手から姿をくらます道具はある。が、そんな小細工は紅玉狼相手には何の意味もなさないだろう。火を付けている間にズタズタに切り裂かれるのがオチだ。


 先頭を走っていたミケも、ルリを見る。


「リュカ! ルリを抱えて走れるかい!?」

「了解!」

「え、え?」


 ミケがそういう時は、何か考えがあってのことだ。ならば、その指示に従えば大体は何とかなると、リュカはミケを信頼している。爆砕斧を背中の革袋に突っ込んでルリに近づくと、困惑する彼女を一気に抱きかかえ上げた。


「ルリ、しっかり捕まってろ!」

「は、はい!」


 ルリを抱えた分、リュカの駆ける速度が僅かに遅くなる。


「リュカ、しっかりついて来なよ!」

「わかった!」


 ミケが先頭を駆け、瘴獣達の間を時にはすり抜け、時には押しのけ、時には飛び越える。リュカも同じようにすり抜け押しのけ飛び越え、ミケの後を付いていく。


 そうして幾らかの行く手を阻む瘴獣達を突破したとき、抱えられていたルリは確かに見た。


 森の奥、先程まで自分達が駆けていた方に、小さな赤い影が瘴獣達を瞬く間に倒しているのを。瘴獣を倒した赤い影は、そこで立ち止まって何かを探してはまたこちらに近づいてくる。


「き、来てます!」

「ミケ、まだか!?」

「もうちょいだ!」


 赤い影はこちらに近づいてくる。遠くに小さく見えてたその影は、今ではその姿がハッキリと分かる。鉄毛熊を倒してやってきたのだろう、紅玉狼だ。


 その時、ミケの前に巨大な瘴獣が姿を見せた。今までの瘴獣の様に、戦わずに突破することは出来そうにないほどの、天を突くほどに巨大な瘴獣が。


「クソッ!」


 ミケが舌打ちをしたその時だ。


 リュカ達の傍を凄まじい突風が吹き荒れ、瘴獣の身体が何の前触れもなく切り裂かれた。


 霧散していく瘴獣。その向こうに見えるのは、赤く輝く狼の姿。


 追いつかれた。子ども達は、足を止めて狼と対峙する。


 リュカはルリを地面に下ろし、革袋から飛び出ていた爆砕斧を抜いて構える。勝算など存在しない。だが、ただやられるわけにはいかない。


 すると、ミケが片腕を上げてリュカを制した。


 リュカは見た。ミケが、服を掴んで必死に震えを抑えようとしてるのを。


 本能的な恐怖に必死に耐えながら、ミケはリュカの前に立ち紅玉狼と対峙する。


 暫くミケを見つめていた紅玉狼は踵を返して歩き出す。その後ろ姿を見て、やがて森の奥へ姿が消えるのを見届けてから、ミケは地面にへたり込んだ。


「た、助かったぁ……」


 今までに聞いたことない程の情けない声で、ミケが呟いた。


「ミケ、一体どういうことだ?」


 事情がわからないリュカが、ミケに尋ねる。紅玉狼が自分達を見逃した理由がわからない。


 ミケは息を大きく吐いてから、リュカの問いに答えた。


「湖が近いんだよ。あの紅玉狼は、ただ湖に向かってただけだったんだ」


 それを聞いて、リュカも脱力して座り込んだ。

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