第145話 保険医の独善
「はー……教室棟まで行くのダル」
一度管理棟の一階まで降りて、そこからまた一年の教室棟まで行かないといけない。
まさか、今まで使っていた教科書が二年生用だったとは……それに今の今まで気が付かなかったというのも、なかなか可笑しな話である。
「とにかく、さっさと教室に行って、サルムの教科書を借りよう――」
管理棟の廊下を小走りで抜け、外へ抜けようとした、その時だった。
「うわぁあああ! あ、あかん!」
焦ったようなハスキーボイスがどこからか聞こえてきて、次の瞬間。
ドンガラガッシャァアアン! と、何かが崩れ落ちる音が聞こえた。それに混じって「うぎゅう」という、くぐもった悲鳴も聞こえてきた。
「なんだなんだ……」
音がしたのは、近くの部屋の中からだ。
ドアの前には、「保健室」の文字。つい先月、お世話になった場所だ。
俺の脳裏に、この部屋の主であるちびっ子女性医が現れる。
まいったな。正直、あの人苦手だからあんまり関わりたくないんだけど。
そう思いつつも、トラブルが起きている気配がするのにほっとくわけにもいかない。
俺は、嫌な予感が外れるように祈りながら、ドアを開けた。
「はぁ……こういうときに限って、嫌な予感って当たるんだよな」
目の前に広がっていた惨憺たる光景に、目眩がした。
棚にあったはずの荷物やら薬やらが、全て床に落ちていて、例の自称天才魔法医のルチル先生がその下敷きになって目を回している。
「…………」
「い、痛い……内臓が、身体が、圧迫される! い、医者……誰か、大至急医者をぉ!」
「……いや、あんただよ」
「はっ!」
思わず突っ込んでしまった俺の方を見たルチル先生が、「今気付いた」みたいな顔を向けてくる。
「む、そうだったな。大した怪我も無さそうなのに、パニックに陥ってしまっていた。……ところで、すまんが少年」
「?」
「……動けない。あっちをここから出してくれ」
短い手をばたつかせながら、ルチル先生はそう言い放った。
こんなアホなコントをやっているチビ保険医のために時間を割くのも癪だが、困っていることに変わりは無いのだろう。仕方なく、若干不本意だが、手を貸すことにしたのだった。
――。
「はっはっはー、やってしまった。横着して脚立を使わずに、棚の上にある薬品を取ろうとするべきではないな」
落下物の山を取り除いて解放した後、薬品類を元あった場所に戻しながら、ルチル先生は悪びれもなく言った。
「はぁ……それはそうですけど。なんで俺まで薬品の片付け手伝わされてるんですか?」
「ん? 決まってるだろう? あんたにも責任があるからだ」
「え」
「棚に並べられていた薬品を落としたのはあっちだが、あんたはその薬品を触り、あっちの身体の上から床の上に移動させた。つまり、お互いに元あった場所とは違う場所に移動させたことになる。だから、薬品を触り、元あった場所から移動させたあっちたち2人には、元の場所に戻す義務がある!」
「うわ。論理が無茶苦茶すぎる」
「ドクターチョップ!」
「うぐっ!」
久々のチョップを額に喰らった俺は、思わず額をおさえる。
「無茶苦茶とは心外な。あっちは、きちんとした論理の元、あんたにも手伝う義務があると――」
「この量の薬品を1人で片付けるのが面倒くさいから、俺を巻き込む口実を作っただけでは?」
「う゛……そ、そんなことは。な、ないぞ?」
図星じゃねぇか。
目が泳ぎまくっているルチル先生を横目で見つつ、俺は片付けを続ける。
「そ、そうだ。こうしてただ片付けるだけだとつまらないからな。テストも近いし、ここは片付けがてら薬学について教えておくとしよう」
「え? いやいいです。俺、選択科目は世界史なんで――」
「例えばあっちが今手にしている、この黒い丸薬。これは「快腸の薬」と言ってな。少量摂取することで、体内から身体を綺麗にする効果が期待できるんだ。だが、気をつけろ。薬と毒は表裏一体。大量摂取すれば、逆に身体に異変を来す。この薬の場合、適正量は一日1粒だが、一度に3粒以上を摂取すると、遅効性の下剤として機能するんだ」
「あの……俺の話聞いてました? 俺、薬学の勉強をする必要は――」
「え? 遅効性と言うと、効果が現れるまでどのくらいかかるかって? それは大体4~5時間ほどで――」
「だめだ。この人、人の話を聞いてくれない」
半ばうんざりして、ため息をついたそのとき。
不意に、保健室の扉が開いた。
「すいません、失礼します」
そう言って、入ってきたのは1人の生徒。
俺も知っている、一年Sクラスの生徒だった。
そばかすに丸めがねが特徴的な、いかにも地味で控えめな印象を受ける男子生徒。
陰口をたたいていた男女3人に混じっていつもいる生徒でありながら、唯一俺達を非難しなかった子だ。
あのあと、クラスの名簿を確認して知ったのだが、名前はアンドラスと言うらしい。
そのアンドラスくんが、何の用か、保健室へやって来た。
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