第89話 温泉での思わぬ邂逅

 俺は、逃げるように食堂を後にした。




 とはいえ、あの混沌の中で食事をするというのはいささかハードルが高く、つまるところ、具体的に言うと骨付きチキン一つしか胃袋に収めていない。


 これでは深夜お腹が空くのは必至だ。




「まあ、後で食べに戻ろうかな」




 食堂が開放されているのは、夜の9時まで。


 まだ三時間近く時間が空いているから、また後ほど戻れば良い。


 それまで、何をして時間を潰すかだが――




「ん?」




 と、そのとき。


 俺は視界にあるものを捉えた。




 無駄に豪奢なレッドカーペットが敷き詰められた純白の通路。


 その向かって左側の壁が二カ所切り取られ、隠すように暖簾がかかっていた。


 赤と蒼に別れた暖簾にはそれぞれ「湯」の文字が書かれている。




「温泉か」




 俺はその場で立ち止まり、少し思案する。


 どうせ時間が空いているのなら、少し早いけども汗を流すというのも一興だろう。


 かくして俺は一度踵を返し、自分に割り当てられた部屋へと着替えを取りに戻った。




――。




 着替えを手に戻った俺は、「男湯」と注釈の書かれた青い暖簾をくぐり、脱衣所へと向かう。


 脱衣所には誰もいなかった。


 まだ時間も早いし、食事を取っているか部屋で休んでいるのだろう。




 そんなことを考えつつ、俺は脱衣所に置かれていた木製のロッカーに服を入れ、タオルを持って温泉に続く磨りガラスの扉を開ける。




 大理石でできた浴槽に、なんらかの成分が溶け込んでいそうな濁った水を湛えている。


 その空間の奥に、もう一つ引き戸を見つけた。


 湯気で曇っているが、その向こうには夕暮れの残滓を纏った夜空が見える。




 俺は簡単にかけ湯をしてから、誰もいない大きな浴槽を素通りして、その扉へと向かった。




 扉を開けたとたん、夜気を孕んだ涼しい風が全身を突き抜けた。


 ガラス全体が曇っていたから気付かなかったが、どうやらこのホテルは露天風呂がメインらしい。




 屋内に比べて面積が広く採られており、温度や成分が違うと思われるいくつかの浴槽が並んでいた。


 縁はすべすべとした丸石で囲まれており、温泉群をぐるりと四角く取り囲む竹林が、艶やかに星明かりを照り返す。


 空を見上げれば、藍色の空が四角く箱庭のように切り取られているように見えた。




 今、この場には俺一人きりのようだ。


 静かな空間を独り占めできるという状況が、俺の個人属性を最大限に高めている感じがして、リラックスできる。




「というか、かなり広いんだな」




 俺は、辺りを見まわしつつ呟いた。


 露天風呂がメインなのはわかったが、それにしたって広すぎる。


 面積ではざっと屋内の4倍近くあるんじゃなかろうか。




 それに、何かが妙だ。


 方向で言うと女湯側の方に、こちら側と同じ温泉と思われるものが並んでいる。


 丁度、俺が今いる空間の温泉やランプの配置と、鏡合わせになるような構図で。




 俺が今いる場所を左半分だとすれば、左半分と右半分に、まったく同じ温泉が似たような配置で置かれているという状況だ。




「一体なんなんだ?」




 俺は首を傾げつつ、右サイドの温泉へ向かう。


 うん。やっぱり左サイドのものと同じだ。なんで、同じ成分で同じ広さの温泉が二つもあるのかはわからないが、まあいいだろう。




 俺はとりあえず、疲れを取るために温泉に身を沈めた。




「ふぃ~」




 温泉に肩まで浸かった俺は、気の抜けた声を上げてしまった。


 やはり、家の風呂とは一味違う。


 脚を伸ばし背中を温泉の縁に預け、星が瞬く夜空を見上げる。




 素晴らしい、これぞ怠惰の、極みなり(五七五)




 俺は、でろ~んと海にたゆたう昆布のような気持ちで、1人の時間を満喫する。


 それにしても――




「明日は、激戦になりそうだな」




 俺は、誰へともなくぽつりと呟く。


 今日の試合が味気なかったのは、強い奴等がいたから。


 当然、その強い奴等がぶつかる明日は、激戦の連続になる。そして――一際異彩を放つのは、やはりあの子だろう。




「シエン=マスカーク……か」




 リーシス先輩よりも学内序列が上のクレメア先輩を瞬殺した、シエンという少女がいかに厄介かは、想像に難くない。


 と、そのときだった。




「僕のこと、呼んだ?」


「っ!?」




 唐突に後ろから声が聞こえ、弾かれるように後ろを見る。


 そこには、いつの間にか。本当に、一切の気配も悟らせずに、1人の少女が立っていた。


 銀色の短髪に紫色のメッシュが入った、その少女は――




「し、ししし、シエン……さん!?」




 いやなんでいるんだ!? ここ男湯だろ!? てかいつからいたんだ!?


 いろいろ情報が錯綜してテンパっている俺の前で。




「シエンでいい。さんはいらない」




 シエンは、眠そうな目で俺を見つつ、そんなことを言った。


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