裕昌と鈴鳴の陰陽師 5

翌日。裕昌は割れた窓に簀子を取り付け、ひとまず応急処置を施す。これで窓の役目は一応果たすだろう。

 さて、と裕昌は黒音の元へ戻った。そろそろ起きた頃だろうか。今日はまだ安静にしていなければ。菜海が昼過ぎに来てくれるはずだ。そして夜は晴明と妖怪退治。その説明をしなくては。

 裕昌は少しだけ不安になる。黒音が怒らないことを祈るばかりだ。

 だが、その不安は的中することになる。事の顛末を話した裕昌は、その間菜海が看病をするという旨を伝えたのだった。それに対して黒音の第一声は、


「やだあ!」


 だった。これではまるで駄々をこねる幼子ではないか。裕昌はその様子に困ったようにうーんと頭を悩ませる。


「頼む。今日だけ我慢してくれっていうのも菜海ちゃんに失礼だけど。菜海ちゃん優しいから大丈夫だって」


「やなもんはやだ。裕昌がいい」


「どうしたものか……」


 頑として譲らない黒音に裕昌もお手上げだ。


「黒音、お前菜海ちゃんのこと嫌い?」


「嫌いじゃないけど、今は裕昌がいい」


 わかったわかった、と裕昌は黒音の頭を撫でた。


「今晩だけ。帰ってきたら黒音の言うこと全部聞くから」


「…………わかった」


 むすー、と膨れる黒音は漸く裕昌の条件を呑み込んだ。これで一安心。そこに、黒龍が顔を見せた。


「主、今晩の件ですが、私はあの妖を追おうと思います」


「黒龍?」


 黒龍のいつもとは違う、ピリピリとした雰囲気に裕昌と黒音は互いに顔を見合わせる。

 黒龍はぎゅっと右手の拳を握りしめた。


「昨夜は不覚を取りました。これは私のリベンジです」


「……分かった」


 ここまで黒龍が闘争心を露わにしているのも珍しい。下手をすれば背後に炎でも立ちそうな勢いだ。負けず嫌いだなあ、と裕昌は苦笑を浮かべた。


「んじゃまあ、そういうことだから。黒音はゆっくり寝てろよ。まだ熱も下がり切ってないし」


「はーい」


 裕昌が店の準備をしに出ていく。残された黒音はつまらなさそうに足をぶらつかせていた。


「あーあ、退屈だなー」


「黒音、寝ていないと主に怒られますよ」


「でもなあ……」


 頭痛もある。めまいも少しある。熱も少しある。とはいえ、確実に昨日より体調がよくなっている。起きれるし頑張れば一人で食事を取ることも可能になった。しかし、まだ激しい動きをしたり暇つぶしに猫の姿で遊ぶ、というのは出来ない微妙なだるさがあった。

 黒音は黒龍の方を見た。話相手くらいにはなるだろう。


「ところで昨夜のことなんだが、何があった」


「大蜘蛛の妖怪が襲ってきたのです。おそらく主を狙ってきたのでしょう」


「なるほどな……あたしも起きていれば戦ったんだが……」


 黒音が悔しそうに歯噛みする。まさか妖の侵入だけではなく、戦闘の気配も感じ取れないほど寝込んでいたとは。風邪なんて引くものじゃないなと思う黒音だった。

 そしてもう一つ。黒音が知らない出来事。


「陰陽師、か……。十中八九御門家の一派だろうなあ」


 思わぬ単語に黒龍は目を丸くする。


「そうです。御門晴明、と名乗っておられました。……知っているのですか?」


「いいや、御門の名前だけだ。昔からこの土地にいる陰陽師なんだよ。全盛期よりは規模が大分縮小しているとは聞いたことがある。しかし、あの安倍晴明と奇しくも同じ漢字をあてられるとは、そいつも大変だな」


 黒音はばふっ、と布団の上に仰向けになって倒れ込む。


「名前はそいつの生き方を決めることもあるんだ。意味を持って安倍晴明と同じ名を付けられたってことは、陰陽師の道で生きていくと決められたようなもんだし。それが陰陽道の家系ならなおさらだ」


 少し起きすぎたかもしれない。まだ病人の身であるということを忘れていた。黒音は最後に一つだけ、黒龍に忠告しておく。


「同級生だからと言っても陰陽師だろ?立ち回り方に気をつけろ。厄介なことに式神もいるらしいしな」


「と、いうと?」


 黒龍はいまいち黒音の意図を掴みあぐねて首を傾げる。


「現代に生きる陰陽師。そいつらが他人を信用してると思うか?」




 黒龍は黒音に言われた忠告を思い出す。

 陰陽師を信用しすぎるな。

 黒音曰く、霊的能力のある陰陽師はスピリチュアルの分野に属するものだ。占い師のようなものでもあり、他人からどう思われるかは様々だろう。そんな世界で生きている人物は、他人を平気で切り捨てる時がある。

 黒龍とて、晴明は未だ警戒の対象だ。これはあの大蜘蛛を追っている場合ではない。

 

「あ、黒龍ちゃん」


 突如菜海に声を掛けられ、目を丸くして驚いたが、驚いた自分に苦笑した。


「そういえば視えるようになったのでしたね。申し訳ございません」


「ふふ、黒龍ちゃん可愛い」


 可愛いと菜海に言われ、黒龍は照れ臭そうにはにかむ。


「そ、そうでしょうか」


「うん。とっても可愛い」


「菜海様も十分お綺麗ですよ」


 あら、と菜海がころころ笑う。黒龍は菜海が呼びとめたことを思い出し、本題を聞く。


「それで、どうされましたか?」


「ひろくんが呼んでいるの。御門さんも来てて」


 黒龍は菜海にありがとうございます。とだけ言うと、主の元へ向かった。裕昌は居間におり、そこには晴明と雫、不知火までもが招集されていた。


「やあ。お邪魔してるよー」


 そう呑気に手を振るのは雫だ。


「あ、黒龍。丁度いいところに」


 裕昌が手招きをして黒龍を呼ぶ。黒龍は裕昌の傍らまで寄ると、静かに腰を下ろした。


「昨日の妖怪、どうやら晴明が追っていたやつらしい」


「!そうだったのですか」


 黒龍が晴明を見ると、晴明は肩をすくめて苦笑した。


「気配を感じて五十鈴屋の近くに寄ったんだけど、あいつ俺の気配に気づいてすぐに逃げちゃってさ」


 なるほど、と黒龍は顎に指をあてる。昨夜蜘蛛妖怪が急に逃げたしたのはそういう理由だったのか。

 そこに雫がけらけらと笑って補足する。


「晴明ってば、別件の依頼主に冷たくあしらわれた後だったから殺気立ってたのかもねー」


「雫。お前余計な事を言うな」


 晴明がじろっと雫を睨む。裕昌はその様子を見て目を瞬かせた。


「主?」


「っ!ごめん、ちょっと考えごとしてた」


 黒龍は主の様子に首を傾げる。裕昌も晴明の素顔を疑っているのだろうか。

 

「今夜、裕昌には森の中で立っててもらう。周りには警戒されてない黒龍と不知火が待機。俺は罠を仕掛けて草むらに隠れておく。こういう作戦で行こうと思う」


「異議なし」


「ほお、お前の得意分野は結界術か」


「……蠱毒の壺も守れないくせにってか」


「けっ」


 晴明と不知火の間で火花が散る。膝の上の白猫はどうしてこうも喧嘩腰なのだろうか、と思う裕昌である。宥める意味で裕昌は不知火の頭を撫でた。不機嫌そうに揺れる尾が、裕昌の胴体にべしべしと当たっている。


「決行は夜20時。19時に五十鈴屋に僕が迎えに来るよ」


 雫の言葉を最後に、一同はその場を解散した。不知火はさっさと菜海の元へ戻っていく。残された裕昌も持ち場に付こうとしたが、黒龍に呼び止められた。


「主、少しよろしいでしょうか」


「?どうした?」


 黒龍は黒音に言われたことをそのまま裕昌に話した。すると、裕昌は驚いたそぶりを見せた。


「主はどう思われますか」


 黒龍はいつでも戦闘態勢を取れるようにしておくべきだと考えている。裕昌だけは守り切らなければならない。そう生まれ変わった時に誓ったのだ。

 だが、裕昌から返ってきた言葉は意外なものだった。


「別に晴明は素を隠してるだけで、悪いやつではないと思うよ」


 だから警戒しなくてもいいと思う、と述べる裕昌。


「ですが、万が一ということもあります。彼らを信用しすぎない方が良いと思うのです」


 黒龍が真剣な眼差しで裕昌を見据える。裕昌はそれを受け止めてもなお、自分の考えを曲げなかった。


「大丈夫。今回だけは俺の直感を信じて欲しいな」


「何故……?」


 裕昌はこめかみ辺りを掻いた。


「俺、あいつの気持ちがちょっとだけわかる気がするんだよな。今日の感じを見てると。なんというか、俺とちょっとだけ似てるっていうか……。俺は何も生まれなかったけど、あいつはそれが報われてるって違いはあるけどさ」


 黒龍には裕昌の言っていることが理解できないでいた。過去の話なのだろうとは推測できるが、黒龍も黒音も、彼の昔話を聞いたことがないのだ。いや、聞こうとしたら「また今度」と、はぐらかされた。

 裕昌は黒龍を優しい眼差しで見つめる。


「ありがとう。黒龍が俺を心配してくれてるのはすっごく伝わってるから。今回は俺のわがままだと思って聞いてほしいな」


 少しだけ照れ臭そうに伝える裕昌を見て、黒龍は思わず諦めの息を漏らした。ああ、私はやはり、守るべき人を間違っていなかったのだと。この人の手を取って良かったのだと。


「……もう、そういうところですよ、主」


「ん?」


「いえ、何でもありません」


 黒龍は悪戯っぽく笑う。裕昌が不思議そうな顔をしている。黒龍には、あの黒猫があそこまでこの青年を好いている理由がなんとなくわかった気がした。




 夜。藍色の羽織を着、警護の二人に守られながら仁王立ちしている人影があった。裕昌である。刀を構えた黒龍と、うんざりしたような様子の白猫がいる。


「そういやなんで不知火は猫の姿?」


 不知火はお座りの体勢で裕昌を見上げた。


「俺が人型を取ると妖気が漏れ出る。流石に知らなくても蠱毒の妖気は警戒するだろうさ。毒そのものなんだからな。陰陽師の気配も察知するくらいなんだろうし」


 どうやら、方士のやつは上手く気配を隠しているようだがな。と、付け加える。

 ちらりと晴明の方を見る。草むらと木の陰にそれぞれ晴明と雫が隠れている。しかし、裕昌も黒龍も不知火もそこには何もいないと思え、と晴明から言われていた。

 森の中の少しだけ木々が開けている場所。裕昌は今、そのど真ん中にいる。そのような場所に突っ立っているのだから、大蜘蛛が気づかないわけがない。寧ろ恰好の餌だ。

 がさがさと不自然に木々の間が揺れる。黒龍と不知火は同時に裕昌の目の前にある森を注意深く観察する。裕昌もいつでも逃走できるように足腰に力を入れる。

 裕昌はもう一度作戦の段取りを思い出した。




◇      ◇      ◇

「裕昌の妖怪を引き寄せる力で、奴をおびき出す」


「別に力でも何でもないんだけど」


 裕昌がげんなりとした様子で雫に言うが、華麗に無視をされた。


「まんまと裕昌襲おうとしたところを、晴明が三人ごと結界で閉じ込めるから、後は黒龍と猫鬼くんでぱぱっとやっちゃって」


 雫の説明に裕昌は不安を覚えた。俺、今度こそ死ぬんじゃないか。その様子に、晴明が苦笑する。


「大丈夫。結界を作ったら俺もサポートしに入るから」


「主。もし何かありましたら、不知火様であろうと晴明様であろうと雫様であろうと、私がぶちのめしますのでご安心ください」


「おいこら、俺は関係ないだろう」


 不知火が抗議の声を上げる。黒龍はやけに殺気立って不知火を睨む。


「関係あります。うっかり毒気で主が死にました、なんてことはあってはいけないので」


 不知火は身軽に跳躍すると、裕昌の肩に乗った。


「おい、どうしてあいつはあんなに殺気立っているんだ?」


「昨夜大蜘蛛に傷つけられた上に、逃げられたから、だと思う……黒龍、ああ見えてプライド高いから……」


 裕昌と不知火は顔を見合わせてぼそぼそと言葉を交わす。そして、黒龍の方を見ると背後に黒煙でも立つ勢いの炎が見える気がした。


◇      ◇     ◇


 裕昌は心配でちらりと警戒態勢の黒龍の方を見る。一応落ち着いたらしいが、どうなる事やら。一方の不知火は、結界が生成されるまでは猫の姿でいるようだ。

すー、はー、と深呼吸を一回。木々のさざめきが大きくなっていく。

刹那、木々の間から大きな影が空高く跳んだ。そして、三人の目の前に砂塵を舞い上げて着地した。


「――――――――――――――――――!」


 蜘蛛が咆哮する。普通の蜘蛛は鳴かないのだが、と黒龍に漏らしたところ、それはツッコんではいけません、と返された。

 大蜘蛛は真ん中に直立している人間を発見し、歓喜に目を光らせた。周りにいるのは、昨夜目を潰され、怪我を負わせた付喪神と見たことのない白猫がいる。まとめて喰ってしまおう。そう思ったのかはたまた本能なのか、蜘蛛は三人の方にめがけて飛び掛かった。


「ばーか。蜘蛛なら糸で絡めて獲物を動けなくするのが先だろって。どう見てもお前は巣を張るタイプだろ!」


 裕昌が生物の知識を用いて煽ると、三人は蜘蛛の攻撃を躱す。その瞬間、地面に円の中に描かれた六芒星が浮かび上がった。それは光を帯びると、たちまち半球の檻と化す。

 大蜘蛛は六芒星の中心に捕らわれて、抜け出そうと懸命に足掻く。


「六芒星、またの名を籠目」


 晴明が姿を現し、茂みから歩を進める。淡々としたその口調に裕昌らは別人かと思うほどだった。


「絶対に逃がさない」


 晴明の瞳が冷たく煌めいた。更に籠目の檻を強化する。不知火はそれを見計らって人の姿を取った。毒の妖気が溢れ出る。


「人間は美味かったか?血の匂いからして、かなりの数を喰ってきたみたいだな」


 不知火が漢剣を引き抜く。黒龍も不知火の隣に並んだ。蜘蛛の瞳に二人が映る。それは死神そのものを映し出すかのようだった。


「ぐえっ」


 裕昌は不意に背後から首根っこを掴まれて結界の外へ連れていかれた。振り返ると同時に、掴んだ手の主が叫ぶ。


「裕昌はここにいるから、気にせずどうぞー!」


 雫の声と同時に黒龍と不知火が跳躍する。黒龍の刀が白銀の光を帯びて蜘蛛の脚を切断する。不知火が漢剣をふるうと、たちまち蜘蛛の下半身が溶け出していく。

 しかし、その毒気は決して晴明と裕昌には届かない。


「あの瘴気にはひやひやするな……」


 晴明が額に汗をにじませて結界を維持するのに集中する。


「うんうん、あれを防げているのは成長の証だな」


 雫がどこまでも呑気に合いの手を入れる。黒龍と不知火は動けない大蜘蛛を確実に分解していく。そして、黒龍が大蜘蛛の脳天を貫いた。蜘蛛はその身体を痙攣させ、絶命した。


「終わったみたいだね。お疲れ様」


「……ふぅ」


 晴明が一つ息をつく。黒龍と不知火も結界の中から出てきた。晴明は蜘蛛の絶命と、不知火の瘴気の消滅を確認すると結界を解いた。

 ふと、裕昌は耳を澄ませた。何かが聞こえる。


「思ったより呆気なかったね」


「はい。晴明様の結界が素晴らしかったのだと思います」


 黒龍たちが言葉を交わす。だが、裕昌と不知火は同時に気配を察知した。


「何か来る!」


「けっ、結構な数を隠してやがったな」


 木々が不穏にざわめいている。かさかさと葉の擦れる音が大きくなる。

 否。それは足音だった。

 全員は背を守るように一か所に固まった。音が大きく、近くなる。


「裕昌、お前よく気付いたな」


「これでも耳は結構いい方なんだけど、まあ嫌いな音に似てたというか……」


 晴明は嫌いな音?と首を傾げた。裕昌は明言するのをためらった。

 言葉は言霊、というではないか。万が一黒く光る平なそれを呼び寄せてしまうことだけは何としてでも避けたかった。


「……これは相当な数だね」


 雫が呟く。裕昌は周りの木々の間を目を凝らして観察する。紅い光が増えていく。それは生き物の眼だ。小さな四つの眼が木々の隙間を埋め尽くしていく。

 裕昌はそれの正体に感づき、思わず息を呑んだ。


「見たところ、子どものようですね」


「だから人間を喰ってたのか。こいつらには十分すぎる栄養だった、ということだな」


 眼は徐々に近づいて来る。地を這い、素早い動きで裕昌たちを取り囲んだ。裕昌の顔がひきつる。今目の前に広がる光景は、胸の内から悪寒を駆り立てる。何百と集まったのは小さな蜘蛛だった。かさかさ、かさかさと足音を立てている。


「さて、どうする方士」


「……俺と雫で大丈夫だ。子蜘蛛はここに居る数だけみたいだからな」


「さてと、そろそろ僕も手助けしようかな」


 うーん、と雫は伸びをすると右手の中指と親指を合わせた。相変わらず笑みを浮かべる雫の表情は人間ではないそれだった。


「晴明、絶対に逃がすなよ」


 晴明が無言で頷く。雫はそれを確認するとぱちんと指を鳴らした。子蜘蛛の群れの最後尾の列、その後ろを水の奔流が囲み、さらに足元にはうっすらと水たまりが出来ていた。


「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」


 晴明が呪を唱えると同時に、四縦五横に印を切る。九字と呼ばれるそれは、網となって水の結界と合わさる。逃げようとした子蜘蛛は結界に触れた途端バラバラになった。

 裕昌と黒龍は傍観していることしか出来ない。特に裕昌は、自分と同じ人間が成している所業だとは思えず呆気に取られていた。一方で不知火は退屈そうに事の成り行きを見守っている。


「上帝、勅あり。速やかに青雷を起こし、この符命に准じ、徘徊を得ず、神威を一振し、万魔を灰と成せ。急々如大木郎、起雷律令ーーー!」


 晴明が懐から霊符を一枚取り出し、天に掲げた。

 晴明の咒を受けて符が効力を発揮する。青い神雷が晴明の目の前に落ちてくる。それは雫が創った水のフィールドを駆け巡り、子蜘蛛の群れを灼いていく。悪しきものを祓う神威が辺りに満ちた。

 静寂が戻る。裕昌たちの周りにいた蜘蛛は一匹残らず消え去っていた。晴明は一つ息をついた。呼吸を整え、汗をぬぐう。二回柏手を打つと裕昌の方を振り返った。


「よし、これで終わり」


 黒龍と不知火がそれぞれ獲物を鞘に収める。もう妖怪の気配はない。


「しかし、裕昌は耳が良いな。俺より先に子蜘蛛に気が付くなんて」


「趣味で培った能力が役に立って何よりだよ……」


 裕昌は苦笑する。大髑髏の件もそうだが、まさか小さな足音を聞き逃すまいとゲームで鍛えたものが役に立つ日が来るとは思ってもいなかった。


「なあ、晴明。ちょっと二人で話さない?」


「?」


 裕昌と晴明は少し離れた岩の上に腰を下ろした。残された黒龍は雫の方をちらりと見る。


「晴明様に主と近づくように促したのはあなたですよね」


「はて、何のことかな」


 白々しく雫は首を傾ける。もはや隠す気などないようだ。


「目的は知りませんが、何のために主を標的にされたのですか」


「標的とは人聞きが悪いなあ、僕はただ背中を押してあげただけだよ」


 雫はにん、と笑みを浮かべる。まるで悪だくみを思いついた子供の様だ。

 不知火は気に食わなさそうに雫を睨む。


「おせっかいな水神だな。よほどあの方士が可愛いと見える」


「その言葉、そっくりそのままお返しさせてもらうよ。猫鬼」


 けっ、と不知火はそっぽを向く。どこまでも余裕のある態度が気に食わない。それは曲がりなりにも神の末席に属する者ゆえだろう。一人、黒龍は意味を掴みあぐねて困惑している。

 その様子に気が付いた雫は、黒龍に向けてこう言った。


「望んでもいないのに独りなんて、あまりにも可哀そうだろう?」




 少し離れた岩に腰を下ろした裕昌と晴明。晴明は一体何の話だろうかと思考を巡らせていた。


「よし、今からはお互い素面で話そう」


「……は?」


 思わぬ裕昌の提案に、晴明はあまりにも間抜けな声を上げた。裕昌はパン、と手を一回叩き「はい、猫被るの終了」と言う。


「俺知ってるから。お前が優等生で人懐っこい猫被ってるの」


「……なんだ、ばれてたのか」


 晴明はそう呟くと、どこか肩の力が抜けたようだった。裕昌には今まで晴明が纏っていた不自然さ、違和感というものがなくなったように思えた。


「学生時代は誰にも見せなかった。裕昌。これが俺の素だよ」


 そう言った晴明の表情は、どこか寂しげで思ったよりあどけなかった。

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